デカルト:フランスの知の巨人

 ルネ・デカルトはフランスの哲学者(1596 ー1650 ) 。 アリストテレス哲学から近代哲学への転機と評されている。若い頃には貴族としての軍人の道に進んだ。その道を諦め、数学などの学問に打ち込んだ。主にオランダで研究生活を行った。主著には、『方法序説』や『省察』などがある。

デカルト(René Descartes)の生涯

 ルネ・デカルトはフランスのトゥレーヌ地方で貴族の家庭に生まれた。父はレンヌのブルターニュ高等法院の評定官をつとめた。デカルトは生まれてまもなく母をなくした。

 1604年、デカルトは10歳の時に、イエズス会のラ・フレーシュ学院に入った。そこでは、古典古代の言語や文学、数学、アリストテレス哲学などを学んだ。1614年、デカルトはポワティエに移り、法律を学んだ。1616年にはポワティエ大学で学位を得た。若き貴族として、乗馬やダンスなどの作法も身につけた。

 オランダへ:ビークマンと数学と機械論

 1618年、デカルトはオランダのブレダに移った。彼の一族は弁護士が多かったので、デカルトにも弁護士になるよう望んだ。だが、デカルトは将校の道を選び、オランダの軍の学校に入った。
 そこでは数学などを学んだ。数学者イサーク・ビークマンに師事した。二人は意気投合し、数学や物理学の議論を行った。ビークマンは自然にかんする機械論的な考えをもっていた。これがデカルトの理論形成に大きな影響を与えることになる。ビークマンはデカルトに数学の才能をさらに開花させるよう勧めた。
 1619年、デカルトはオランダを離れ、旅に出た。ドイツでは、当時始まったばかりの30年戦争に、カトリック軍側で参加した。同年、デカルトは不思議な夢をみて、哲学研究に本格的に取り組むよう決意した。

フランスへ:ラ・ロシェルの戦い

 1622年にはパリに移った。メルセンヌなどの、学者や文人、聖職者などと交流をもつようになった。この頃には、薔薇十字団の影響を受けるようにもなった。

 この時期、フランス王権はプロテスタントへの締付を強めていた。1627年からは、最大の拠点ラ・ロシェルの包囲戦が始まった。デカルトはこれに参加した。1628年、王権はラ・ロシェルの攻略に成功した。

 再びオランダへ:学者としての開花

 同年、デカルトはパリを離れ、再度オランダに移った。フランスでは宗教的抑圧などで自由に学問を行うのが難しいと判断したためである。当時、オランダは寛容の地と考えられていた。

 ただし、オランダでも寛容には限界があった。かつてデカルトが滞在していた1610年代には、プロテスタント間の激しい宗教対立が生じた。これがオランダに内戦寸前の危機をもたらした。1619年にその危機は去った。だが、余波が1620年代にも残っていた。これがデカルトの研究活動に影響する。

数学の研究:座標の発見

 1629年、デカルトはオランダ北部のフラネカー大学で学んだ。数学と形而上学の研究を行った。たとえば、比例関係は代数方程式によって表現することができるなど、幾何学と代数学の関係について考察を深めた。これがいわゆる座標の発見につながっていく。

『省察』と『宇宙論』の執筆開始

 1630年には、ライデン大学に移った。形而上学の研究を進め、『省察』や『宇宙論』などの執筆に打ち込んだ。それらの著作では、伝統的なアリストテレス主義哲学と対立する新たな哲学を提示することになる。
 しかし、1633年、デカルトは『宇宙論』の公刊を諦めた。というより、この原稿を焼き捨てようかとも考えた。原因は、同年のローマ教会によるガリレオへの異端判決である。デカルトはガリレオと同様に、『宇宙論』で地動説を唱えようとしていたのである。ガリレオへの異端裁判について知り、デカルトは本書を結局公刊しなかった。

 1630年代においては、デカルトはアリストテレス主義哲学を明確に否定しようとはしなかった。というのも、この哲学は当時のカトリックとオランダのプロテスタントの神学者で通説として受け入れられていたためである。

 それでも、デカルトの形而上学は理神論的であり、キリスト教における摂理や奇蹟を認める余地がほとんど残されていなかった。この点などが神学者の批判を惹起することになる。

『方法序説』

 その後も、デカルトは研究と著述を続けた。1637年、 伝統的な学問の刷新を目的に、『方法序説』を公刊した。これはデカルトが公刊した最初の著作だった。同時に、『屈折光学』や『幾何学』なども公刊していった。
 本書はアリストテレス哲学やスコラ哲学のような伝統的な学問を刷新し、新たな近代哲学へと至らせる画期的な試みとして知られている。デカルトは伝統的な学問の問題点を指摘した上で、自身の方法論を示す。

 そのうえで、自らの形而上学を構築する。確実なものを知るために、疑うことを徹底した。その流れで、「我思う、ゆえに我あり」にたどりつく(より詳しくは「方法序説」の記事を参照)。
 デカルトは本書を公刊する前に、コンスタンティン・ホイヘンスと議論を交わしていた。ホイヘンスはオランダ総督フレデリック・ヘンドリックの重臣であった。ホイヘンスはデカルト理論の革新さに気づき、デカルトにその理論をぜひ公刊するよう勧めた。デカルトはこれに応じるとともに、自身の草稿の添削をホイヘンスに求めていた。

(本書について、より詳しくは『方法序説』の記事を参照)

 『省察』

 1641年、デカルトは形而上学関連の主著として知られる『省察』を公刊した。
 本書において、デカルトはこれまで信用してきたが実は疑わしい信念をすべて排除して、確実に知りうることがなにかを突き止めようとする。その際に、彼は疑わしい考えをすべて退けるという方法をとる。これは方法的懐疑と呼ばれる。疑わしいものをすべて取り除き、最後に残った「確実だといえること」を明らかにしようとする。
 その際に、デカルトがまず疑わしいとして退けたのは感覚的経験である。たとえば、日光の下では茶色いものは、暗い場所では黒い。視覚や聴覚のような感覚はこのように頼りにならない。
 他方で、デカルトは数学の公理のような抽象的な原理もまた信用できないという。デカルトは確実なことを知るうえで、「最大限の力と狡猾さを持つ邪悪な天才が、私を欺くために全力を尽くしている」と思い、気を引き締める。

 方法的懐疑の末に、デカルトがたどりついたのが「我思う、ゆえに我あり」である。デカルトはあれもこれも疑わしいと思考をめぐらす。思考をめぐらすということは、そのようにめぐらしている自分自身がいるはずである。

 少なくとも、論理的に考えればそうなる。よって、感覚に騙されていようがいまいが、考えている私の存在は確実だ。したがって、我思うので、そのように思う我あり、ということになる。

 本書では、デカルトは「我思う、ゆえに我あり」を選定として、神の存在証明も行っている。心身二元論も展開される。

 1644年、『哲学原理』を公刊した。本書はボヘミア王女エリザベートに捧げられた。デカルトは形而上学をあらゆる学問の基礎とみなした。形而上学によって物理学が基礎づけられる。さらに、物理学によって倫理学や医学などが基礎づけられると考えた。

 オランダでの論争

 その頃、デカルト理論はユトレヒト大学で紹介された。ユトレヒト大学を中心として、次第に広まっていった。他の国でも、デカルト哲学は徐々に大学などで教えられるようになる。

 ユトレヒト大学では、教師のレギウスが人間は肉体と精神の偶然的な結びつきの産物だという説明を行った。これは神の似姿という当時のキリスト教的な人間観に反していた。学生たちがこの授業に強く反発した。
 当時のユトレヒト大学はカルヴァン主義系プロテスタント神学者の主要拠点となっていた。1641年、主要な神学者で学長にもなったユトレヒト大学のフーティウスは学生たちの強い反発を受けて、公開討論を設定した。フーティウスはデカルト批判を展開した。

 1643年、デカルトはフーティウスへの公開書簡という形で反論でした。デカルトはここで自己弁護を行った。だが、フーティウスへの個人攻撃も行っていた。そのため、デカルトは名誉毀損で訴えられた。デカルトは逮捕を恐れて、コンスタンティン・ホイヘンスに助けを求めた。オランダ総督の助けを得ようとしたのである。

 ユトレヒトの裁判はそのままとなった。デカルトはフーティウスの支持者にたいしてフローニンゲンで裁判を起こした。このようにして、デカルトはオランダで結局裁判と論争の応酬にはまり込んでいった。
 論争の中心的な論点は、アリストテレス主義的あるいはスコラ主義的なな形相や質量の概念だった。アリストテレス主義哲学的な理論では、形相や質量が事物の因果関係における原因として扱われていた。

 1640年代前半の時点でも、デカルトは質量というものがそもそも存在しないと私的書簡では論じていた。だが、デカルトは公の論争を回避しようとして、自身の理論には質量や形相が不要なのだと論じることにした。

 晩年

 デカルトはオランダに失望して、フランスに戻り、1647年、ガッサンディとホッブスと会った。その後、『情念論』を刊行した。オランダに戻ったが、デカルト主義への批判がなお盛んに行われていた。

 そこで、1649年、スウェーデン女王クリスティーナの招きに応じて、ストックホルムに移った。翌年、病没した。

 デカルトの性格

 デカルトの性格については、臆面のない陽気な人物で、慎重であり、聞かれたことにはなんでも率直に答える強い意志の持ち主と評された。頭脳明晰であり、「まるで哲学そのものが彼の口を通して語っているかのよう」と評されることもあった。

 だが、デカルトの評価は利害関係のありようによって大きく変わることもあった。たとえば、デカルトは若い頃に親しかったベークマンと突如仲違いするようになる。この点において、デカルトは自慢好きで、疑い深く、短気で、理不尽で、不誠実で、自己中心的で嘘つきだと評されることもあった。

『宇宙論』:地動説と自然法則

 死後、デカルトの『宇宙論』が公刊された。本書では、デカルトは地動説を支持した。さらに、自然についての説明から形相の概念を排除した。その代わりに、すべての自然現象は基本となる粒子のメカニズムに還元可能だと論じた。

『人間論』の機械論的人間の理解

 同時に、デカルトの『人間論』も公刊された。後者はセンセーションを巻き起こした。これは人体のすべての機能を機械論的な仕方で体系的に説明した。すなわち、呼吸や消化そして血液循環などや感覚と運動機能などを自動化されたシステムとして理解した。

 その結果、人間の反応の多くは感覚神経と運動神経の間の情報交換によって起こっているのであり、そこには「魂」すなわち人間の意識はなんの影響力ももたないと考えを示した。すなわち、身体の不随意の反応という概念を先取りしたのだ。本書は身体の働きに関する自然主義的な記述から「心」や「魂」の概念を排除する最初の試みとなった。
 デカルトは人間の生命について自身の理論を打ち立てようとしたが、自身の知識や考察が不十分なものだと認めていた。そのため、自然の世界を機械論的に説明した『宇宙論』と、人間の生命についても論じようと考察を続けた『人間論』は別個の著作として執筆されることになった。

 デカルトの学問的な意義

 デカルトの学問的な貢献は哲学や形而上学で有名である。しばしば中世のアリストテレス主義からの転換点と評される。ただし、著名な哲学的巨人であるため、研究書も多く、様々な解釈がなされている。また、デカルトは天文学や物理学、数学(代数学と幾何学)にも多大な貢献を行った。

デカルトの肖像画

デカルト 利用条件はウェブサイトで確認

デカルトの主な著作・作品

『宇宙論』(1633)
『方法序説』(1637)
『省察』 (1641)
『哲学原理』(1644)
『情念論』(1648)

おすすめ参考文献

冨田恭彦『デカルト入門講義』筑摩書房, 2019

伊藤勝彦『デカルト』清水書院、2014

David Cunning, Descartes, Routledge, 2024

Steven Nadler(ed.), The Oxford handbook of Descartes and Cartesianism, Oxford University Press, 2019

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