50音順の記事一覧を公開しました!リストはこちらから

アメリゴ・ヴェスプッチ

 アメリゴ・ヴェスプッチはイタリアの探検家(1454ー1512)。メディチ家のもとで働いた。仕事先のスペインで、コロンブスと出会い、航海事業に携わった。その後、これからみていくように、大航海時代の代表者の一人となっていく。

ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)の生涯

 ヴェスプッチはフィレンツェの公証人の家庭に生まれた。若い頃に人文学を学んだ。

メディチ家とのつながり

 ヴェスプッチ家はフィレンツェの有名なメディチ家とつながりをもっていた。このつながりがアメリゴの人生にとって重要なものとなる。
 15世紀、メディチ家は大いに発展し、フィレンツェの実質的な統治者になった。だが、15世紀の終わりごろには、メディチ家もフィレンツェも政治的に困難な時期に入っていた。フランスを味方に引き入れるために、使節を派遣した。1478年、アメリゴはその使節団の一人として、フランスへ派遣された。フランスの宮廷に出入りした。
 1482年、アメリゴはイタリアに戻った。メディチ家の秘書として仕え、家計などを担当した。

スペインのセビーリャへ

 1491年、アメリゴに大きな転機が訪れた。メディチ家はそもそも銀行業で発展した一族である。スペインやポルトガルにも支店を拡大した。そのうちの一つに、スペインのセビーリャ支店があった。
 この支店で人事異動が起こった。ベラルディという人物が新たな支店長に選ばれた。アメリゴはこの人事異動のために、セビーリャ支店に派遣された。

コロンブスとの出会い

 周知のように、1492年、コロンブスがインド航海に出発し、新世界を「発見」した。1493年、スペインに戻ってきた。当時、セビーリャはスペインの主要な港湾都市だったので、コロンブスはここに移動してきた。

 その頃、アメリゴはメディチ銀行セビーリャ支店で、上述のベラルディのもとで働いていた。ここで、ベラルディが重要である。
 ベラルディはこの頃、スペインやポルトガルの大航海時代の探検事業に出資していた。さらに、コロンブスがセビーリャに戻ってきた際に、ベラルディがコロンブスの船の面倒を見た。そのため、アメリゴもまたコロンブスと知り合いことになった。

コロンブスの航海事業に協力

 さらに、ベラルディとアメリゴはコロンブスの航海に本格的に協力するようになった。コロンブスは第一回航海の成功により、提督にまで出世した。ベラルディとアメリゴはコロンブスのさらなる航海に莫大な利益を見込んだのである。
 1493年、コロンブスはアメリカへの第二回航海に出発した。アメリゴはそのための準備を担当していた。コロンブスの弟のバーソロミューが同年末にアメリカに出港する際にも、その準備を手伝った。

 さらに、アメリゴはコロンブスの第三回の航海の準備も行った。アメリカから送られてきた荷物の受取なども担当した。さらに、スペイン王権にかけあって、新たな航海の計画なども立てていた。

 このようにして、アメリゴはアメリカ航海に実務レベルで精通していった。

 アメリゴ、新世界へ

 ベラルディが没した。アメリゴは遺言執行人となり、会社の整理などを一通り行った。1496年、コロンブスとの金銭的な精算をすべて終わらせた。両者はビジネス上の協力関係を終えた。これ以降も友人であり続けた。

第一回航海

 1499年、ついにヴェスプッチ自らスペイン探検隊に加わって、新世界の探検に出発した。コロンブスの第三回航海とほぼ同じルートを通った。探検隊は現在のギアナからブラジルにかけて、南アメリカ大陸の沿岸を探検した。

 1500年に帰国した。この探検では、ヴェスプッチは依然として古代のプトレマイオスの地図を信用しており、自分たちがアジアに行き着いたと考えていた。

第二回航海

 1501年、ヴェスプッチは再び探検航海に出発した。今度はポルトガルの遠征隊として出発した。ブラジルのリオデジャネイロ湾からリオデラプラタにまで達したと思われる。帰路では、インドからポルトガルに戻る途中のカブラルの艦隊と一緒になった。
 この探検により、ヴェスプッチは自分たちの探検地がアジアではなく新たな大陸だと確信したようだ。

第三回航海?

 1504年、アメリゴは再びポルトガルの探検隊に参加したとされている。これは早速大きな問題に直面したため、ほとんどなにも達成できなかった。

 アメリゴの航海にかんする疑念

 以上、アメリゴはアメリカへと2−3回ほど自ら航海した、と考えられてきた。だが、本当に行ったのかを疑問視する声もあがっている。アメリゴが行った根拠としての史料に問題があるためだ。
 アメリゴ自身の書簡がその最大の根拠とされてきた。だが、この複数の書簡には相互に矛盾がみられる。地名や位置関係がおかしい場合もある。また、アメリゴはアメリカの探検事業にかんして、自分自身の手柄を誇張しようとしている。これらの問題により、アメリゴの書簡は信憑性に疑いをもたれている。
 とはいえ、アメリゴが自ら一度もアメリカに航海しなかったというわけでもないようだ。とくに、2回目航海はカブラル艦隊と重なった際の状況証拠などによって、実現された可能性が高い。

 スペインの探検航海への奉仕

 ヴェスプッチはその後、スペイン王室に召喚された。スペインの探検航海を支えるような役職につくよう打診され、承諾した。たとえば、水先案内人の試験や航海機器の管理などに携わった。1508年には、最高航海士の称号を贈られた。 他方で、探検航海の事業への出資も行った。

 1512年、病没した。
 

 アメリゴの功績と遺産

 1503年、ヴェスプッチの著作として『新世界』という著作が公刊された。ここで、ヴェスプッチがアメリカが新大陸だと宣言した、と一般的に考えられている。

 ドイツの地誌学者のワルトゼーミュラーはアメリゴの提案に惹かれた。彼はコロンブスではなくアメリゴをアメリカの発見者だとみなした。 そこで、この新たな大陸を、アメリゴ(・ヴェスプッチ)の名前にちなんで、「アメリカ」と名づけるよう提唱した。
 なぜ大陸名はアメリゴではなくアメリカなのか。それはアフリカなどの大陸名が女性形となっていたからである。よって、アメリゴの地という意味で、アメリカと名付けられた。
 ワルトゼーミュラー、1507年の著作に付録した地図で、アメリカの名前とともにアメリカ大陸を描いた。その結果、この名称が普及していった。

 ただし、ヨーロッパ人はアメリカが本当に新しい大陸であることを確証するのに、さらに100年以上かかることになる。そのためには広大な南北アメリカ大陸を探検する必要があったためである。ヴェスプッチの時期はまさにその始まりに該当する。

アメリゴ・ヴェスプッチの肖像画

アメリゴ・ヴェスプッチ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

篠原愛人『アメリゴ・ヴェスプッチ』清水書院, 2016

Jean-Paul Duviols, Le Nouveau Monde : les voyages d’Amerigo Vespucci (1497-1504), Chandeigne, 2005

Felipe Fernández-Armesto, Amerigo : the man who gave his name to America, Weidenfeld & Nicolson, 2006

タイトルとURLをコピーしました