コルベール:フランス絶対王政の経済を握る

 コルベールはフランスの政治家(1619ー1683)。フランス国王ルイ14世が絶対王政を確立するのを主に経済面で支えた。様々な財政・経済政策でフランス国家財政を立て直し、収入を増やした。海洋貿易推進のため、フランス海軍を増強した。だが、重商主義政策が一因となって、1672年にオランダとの戦争に突入した。それが財政を圧迫し、それまでの諸政策に大きな打撃を与えることになった。また、コルベールはフランス文化の発展にも寄与した。コルベールの生涯と功績を知ることで、ルイ14世のフランス絶対王政の根幹部分を理解することができる。

コルベールの生涯

 ジャン・バプテスト・コルベール(Jean-Baptiste Colbert)はフランス北部のランスで裕福な毛織物商の家庭に生まれた。だが、商人を志さず、様々な公職についた。

 1648年、コルベールが30歳に近づく頃、フランスではフロンドの乱が生じた。王権にたいして議会や貴族の一部が起こした反乱である。王の代わりに政務を担当していたのは宰相マザランだった。マザランはパリを離れざるをえず、地方を転々とした。コルベールはマザランと知り合い、その信頼を勝ち取るようになった。

 1651年、コルベールはパリでマザランの代わりに政治を仕切った。1653年、フロンドの乱が沈静化した。マザランは政務を再開した時に、コルベールを特に引き立てた。コルベールは彼の後押しで叙爵もされた。1661年、マザランは没する際に、国王ルイ14世にコルベールの重用を進言した。

 フランス財政の改善へ:財務総監

 1661年から、ルイ14世が自ら統治を行うようになった。コルベールはその統治下で、重臣として用いられた。ただし、リシュリューやマザランのように、政治を一任されるようなことはなかった。

 ルイ14世の時代はフランス絶対王政の確立期として知られる。コルベールはこれを主に財政面で支えた。1661年の時点では、フランスの財政は厳しい状況にあった。コルベールは財務官として、さっそくその改善に取り組んだ。支出の無駄を大幅に削減した。商人や金融業者による課税逃れなどを厳しく取り締まるなどして、税収を増やした。1665年には、財務総監に任命され、政策を遂行していった。

 重商主義政策:東インド会社

 コルベールはフランスを当時のオランダのような海洋帝国に育て上げようとした。海洋貿易が大きな利益をうんでいたからである。そこで、貿易での輸出額の増大によって利益を増大させ、輸入には保護関税をかけるなどして輸入額を削ることで支出を減らすという方策をとろうと試みた。

 主な輸出品は、毛織物や、ゴブラン織などの奢侈品、ガラス製品などであった。これらを安価で大量に生産するために、原料の作物などを栽培する農業への規制や奨励、免税、生産のための国営の作業場の建設なども推進した。

 また、コルベールはフランスの海外植民地政策の再編に取り組んだ。その背景として、17世紀前半、当時の強大国オランダが東インド会社を設立し、東アジア貿易に成功した。西インド会社をも設立し、アメリカ大陸での貿易などに従事させた。オランダは貿易で莫大な利益をあげ、黄金時代を迎えていた。この時期のフランスの宰相リシュリューはオランダの成功を模倣すべく、同様の会社を王権主導で設立させた。だが、これらの会社はオランダなどとの競争に勝てず、困難な時期が続いていた。

 そこで、1664年、コルベールは東インド会社と西インド会社を再編した。それまで設立されていたフランスのすべての特権会社が統合され、東インド会社と西インド会社になった。カリブ諸島などのフランスの植民地は王の直轄地になった。本国からそこへ総督などを派遣した。海軍と会社理事がこれらを運営した。そこから外国人の介在を排除した。カナダへの移民も奨励し、植民地建設をすすめた。

 だが、西インド会社は1673年には倒産した。アメリカ海域での戦費の重さや密輸の多さが原因である。そもそも、オランダの西インド会社もまた利益をあげられず、事実上の倒産を経験した。そこで、18世紀には、フランス王権は自由貿易に任せるようになる。

 1668年には、コルベールは海軍卿に任命された。フランスの海洋進出によって他国との戦闘も予想された。それゆえ、コルベールは海軍力の強化をはかった。コルベールの任期の終わりには、フランス海軍が所有する船の数は10倍以上になった。

 戦争と財政政策の頓挫?

 上述のコルベールの財政改革などにより、1671年までにはフランスの国家財政は大きく改善し、国家の収入は2倍になった。だが、上述の輸入品への保護関税やフランスの海外貿易への本格的な参入により、1672年からフランスとオランダで戦争が始まった。

 この戦争自体は、フランスの巧みな外交政策などにより、1678年、フランスの勝利で終わった。フランスはフランドル地方やフランシュ・コンテなどを獲得した。

 しかし、戦費が国家財政を逼迫させた。そのため、コルベールはタバコなどの新たな税を制定するなどして、財政を回復させようとした。だが、うまくいかなかった。

 様々な原因が指摘されている。たとえば、特定の業者への国家の支援策は民間からしばしば強い反発をうけた。また、戦費で財政が圧迫されてからは、それらの支援が滞るようになったため、多くの工場や会社が倒産したり衰退したりした。競争相手だったオランダやイギリスが手強かったためでもある。

 1680年、コルベールはルイ14世にたいし、財政が逼迫しており、その回復の適切な手段がないことを報告した。そのため、ルイの信頼を失うことになった。影響力を失う中で、1683年に没した。コルベールの政策が成功したかについては、議論が割れている。

 フランス文化の発展への貢献

 なお、この時代のフランスは文化の面でも発展がみられた。コルベールはこの発展にも寄与した。1663年には文芸アカデミーを設立した。1666年には科学アカデミーを、1669年には音楽アカデミーを、1671年には建築アカデミーを設立した。また、1666年にはローマにフランス学院を設立した。

 アカデミーは学問や芸術の組織化や制度化などにおいて非常に重要な役割を担うことになる。たとえば、ローマ賞の創設により、若き画家などがイタリアに留学する道が開かれ、後代の多くの画家などを育成することになる。

 コルベールと縁のある人物

ルイ14世:コルベールの主君。当時のヨーロッパでは、君主は寵臣に政治を委ねるのが一般的だった。だが、ルイ14世は1661年から自ら実権を握った点で特異だった。コルベールはそのもとで立ち働いた。

マザラン:コルベールを政治的に引き上げた恩人。ルイ13世の時代にフランスで実権を握った宰相。フランス絶対王政をリシュリューとともに築き上げていった。ルイ14世やコルベールはその延長線上にある。では、コルベール以前のフランス王制はどのようだったのか?

コルベールの肖像画

コルベール 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

深草正博『一七世紀の危機とフランス経済史』現代図書 , 2021

Daniel Dessert, Le royaume de monsieur Colbert, 1661-1683, Perrin, 2007

Glenn J. Ames, Colbert, mercantilism, and the French quest for Asian trade, Northern Illinois University Press, 1996

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