50音順の記事一覧を公開しました!リストはこちらから

コロンブス:アメリカの新世界へ船出するヨーロッパ

 クリストファー・コロンブスはイタリア人の探検家(1451−1506)。イタリアのジェノヴァ出身だが、スペイン王権のもとでインドへの航海事業を開始した。結果的に、アメリカを「発見」した。大航海時代を代表する人物の一人として認知されてきた。その後、スペインがアメリカの征服を開始し、黄金時代を迎えることになる。そのため、ヨーロッパの植民地主義の象徴とも思われている。21世紀には、植民地主義への批判が強まる中で、コロンブスへの再評価も進んでいる。以下、貴重な歴史画像を用いながら、説明しよう。

コロンブス(Christopher Columbus)の生涯

 コロンブスはジェノヴァの商人の家庭に生まれた。ジェノヴァは長らく、地中海貿易に従事する貿易都市だった。だが、この貿易での競争でヴェネツィアに敗北した。それゆえ、大西洋での貿易に目を向けるようになった。

 コロンブスもまたポルトガルに移った。1477年頃にはポルトガルとマデイラ島の砂糖貿易に従事した。この頃に結婚し、子供もできた。大西洋の貿易を続け、ギニアなどへ航海した。

 インド航海の計画

 同時に、コロンブスはインドへの壮大な大航海の計画を練り上げていった。彼は様々な著作から地理情報を収集した。古代のプトレマイオスの『宇宙誌』やマルコ・ポーロの『東方見聞録、などである。

 当時は現在と比べれば、ヨーロッパでは圧倒的に地理情報が不足していた。そもそも、アメリカ大陸の存在がまだ知られていなかった。アジアについては、インドや中国、ジパングなどの存在が知られていた(ジパングが日本を指すかについては議論が割れている)。コロンブスの計画によれば、大西洋の西側には広大な大地があり、それがアジアに接続している。よって、西廻りでインドの香辛料貿易を実現できるとされた。

 インドへの到達を目指して:スペイン王との交渉

 1484年、コロンブスはインド航海の計画をポルトガル王ジョアン2世に提案した。だが、うまくいかなかった。そこで、コロンブスはスペインに移った。

レコンキスタの完遂の中で

 この時期、スペイン国王フェルディナンドと女王イサベルは、レコンキスタの最終段階にあった。レコンキスタとは、スペインがイベリア半島からイスラム勢力を追い出す再征服事業である。8世紀に、イベリア半島の北部からスタートした。コロンブスの時期には、最南端のグラダナだけが未征服エリアとして残っていた。

 そのため、スペインの両王はスペイン南部のコルドバに滞在し、グラナダを攻略していた。そこで、コロンブスはコルドバで彼らを訪ね、インド航海を提言した。両王はこれを諮問にかけた。だが、王の諮問委員会は好意的な回答を長らく出さなかった。

 コロンブスは長く待たされた。そのため、他の国にもこの計画を打診することにした。1488年、弟をイングランドのヘンリー7世のもとに派遣した。だが、ヘンリーはこの提案を受け入れなかった。これがのちにスペインとイギリスの植民地競争に尾を引くことになる。

 最終的に、スペイン王がコロンブスの計画を承認することになる。1492年1月、スペイン王はついにグラナダを陥落させ、レコンキスタを完遂した。コロンブスはグラナダの宮廷でスペイン両王に謁見した。そこでインド航海の計画が話し合われた。同年4月、ついに両者の間で契約が取り交わされた。これにより、コロンブスはその航海に関する様々な権利を王から得た。さらに、この計画のために今日の3億円程度の資金を与えられた。かくして、ようやく航海の準備を開始した。

 第一回航海:新世界アメリカのカリブ諸島への到達

 1492年8月、コロンブスはサンタ・マリア号やニーニャ号、ピンタ号の3隻で出発した。未知なる旅路がコロンブスの具体的な航海計画の通りに進まなかったので、船員たちの間で騒乱も生じた。それらを抑えつつ、コロンブスは航海を続けた。

サンタ・マリア号(復元)

コロンブスのサンタ・マリア号 利用条件はウェブサイトにて確認

コロンブスのサンタ・マリア号の復元。いかに小さな船だったかが分かる

 ついに10月、現在のバハマ諸島のひとつに到達した。彼はこの島サン・サルバドル島(救世主島の意味)と名付けた。さらに、コロンブスは探検航海を続けた。キューバ島やハイチ島に到達した。ハイチ島をエスパニョーラ島(スペイン島の意味)と名付け、そこに植民地の拠点を形成しようとした。エスパニョーラ島では砂金がとれた。現地の物産や先住民を少数たずさえて、帰路についた。

1492年のコロンブスのアメリカ到来

1492年のコロンブスのアメリカ到来 利用条件はウェブサイトで確認

1493年、無事にスペインに戻った。かくして、コロンブスはアメリカを「発見」した。ただし、アメリカの大陸には到達していなかった。

 コロンブスはバルセロナでスペインの王たちに謁見し、発見を報告した。アメリカの珍奇な品々、先住民などを献上した。その結果、コロンブスは提督に任じられ、一挙に立身出世を果たした。

バルセロナでスペイン両王に謁見するコロンブス

コロンブスがバルセロナでスペイン王に謁見 利用条件はウェブサイトで確認

 同時に、コロンブスのアメリカ発見はスペインとポルトガルの対立を激化させかねなかった。そのため、両国はお互いに航海・植民事業を邪魔し合うことのないよう、トルデシリャス条約を結ぶなどの措置をとることになる。

エピソード:コロンブスはアメリカの存在を航海前に知っていた?

 当時のスペインでは、なぜコロンブスがアメリカに到達できたのかについて、このような噂が広まっていた。コロンブスがアメリカに到達できたのは、コロンブスがアメリカの存在を事前に知っていたからだ。というのも、コロンブスより前にアメリカに到達し、ヨーロッパに戻ってきた船員がいたからである。その船員は嵐によって船がアメリカに流されてしまった。だがどうにかヨーロッパに船で戻ってきた。この経験をコロンブスに教えた後、死んだ。そのため、コロンブスはアメリカの存在を確信でき、そこに到達できたのだ、と。

 しかし、このエピソードは現在の歴史学においては、おそらく真実ではないだろうと考えられている。

 第二回のアメリカ航海

 すぐに第二回航海が計画された。1493年、17隻の船団が組まれた。この頃、コロンブスはイタリア人の探検家アメリゴ・ヴェスプッチと既に知り合っており、ヴェスプッチに船の艤装などを手伝ってもらった。ヴェスプッチはのちに自らアメリカ探検を行い、「アメリカ」という大陸名が彼の名前に由来して生まれることになる。

 同年、コロンブスは第二回航海に出発した。アンティル諸島などを探検した。新しい土地の発見はそれなりに順調になされた。だが、植民事業は困難に直面した。未知の土地で食料確保に苦しみ、飢餓や病気が蔓延したためだ。結局、この航海の投資額を超える利益は得られなかった。

 第三回のアメリカ航海

 コロンブスの第三回の航海が1498年に開始された。今回は6隻の船団であった。中国への道を発見しようとしたが、失敗した。再びアンティル諸島を探検し、発見した島をトリニダードと名付けた。

 植民事業は再び困難に直面した。この頃には、現地でのコロンブスへの嫉妬や反感が強まっていた。反乱の兆しさえ高まっていた。そのため、コロンブスがエスパニョーラ島に到来したときに、コロンブスは拿捕された。1500年、本国へ送られた。コロンブスは王権に不正を訴えた。これが認められ、彼は釈放された。なお、コロンブスによる三回目の航海費用もまた王室によって賄われた。だが、これが最後の公的負担となった。

 第四回の航海と死

 1502年、コロンブスは第四回の航海に出発した。今回は四隻だった。中央アメリカに向けて出発し、ホンジュラスに到着した。その後、アメリカ大陸を海岸沿いに移動し、探検航海を行った。ニカラグア、コスタリカ、パナマを海岸沿いに進んだ。だが、それ以上の探検を断念し、戻ることにした。

 ジャマイカに到着したとき、大きな問題が発生した。コロンブスの船が座礁したのだ。そこから無事にスペインに帰還するまで、1年以上かかった。かくして、コロンブスの最後の航海が終わった。

 1506年、コロンブスは失意の中で没した。ただし、全面的に失敗に終わったわけではなかった。たとえば、息子のディエゴはスペイン宮廷に認められるようになっていた。発見事業を達成する前と比べれば、明らかに立身出世しており、大きな財産を築いていた。

 ちなみに、コロンブスの遺骨はアメリカに移された。その後、スペインのセビーリャに移された。

 コロンブスの意義と影響

 コロンブスの意義については様々な点が指摘されている。ここでは、植民地主義にかんしてのみ述べよう。

 ヨーロッパによる植民地主義の本格的な始まりである。コロンブスの発見以降、スペイン人やポルトある人が本格的にアメリカで征服と植民を開始することになる。その結果、中南米(ラテンアメリカ)は19世紀になるまで両国の植民地となった。それ以降は中南米諸国の独立に至る。スペインとポルトガルに1世紀ほど遅れて、イギリスやオランダなども他の地域で植民地建設を本格化させることになる。コロンブスはこのようなヨーロッパの植民地主義の始まりと位置づけられる。いわゆる「コロンブス交換」などはこれに付随する論点である。

西インドと呼ばれたアメリカ

 コロンブスは死ぬまで、アメリカを「インド」だと言い張り続けた。当時はアメリカの地理がまだまだ不明瞭だったのも一因である。だが、アメリカがいわゆるアジアのインドではないと気づきはじめた人もでてきた。とはいえ、コロンブスはそもそもインド公益のためにスペイン王権から出資してもらい、様々な権限も付与されていた。そのため、コロンブスからすれば、コロンブスが到達した地域はぜひともインドであってほしかった。そのような事情もあって、コロンブスはアメリカをインドだと言い張り続けた。
 コロンブスの死後、アメリカは少なくともあのインドではないということが判明した。だが、その頃には、アメリカをインドと呼ぶ習慣が定着していた。そのため、アメリカ地域は西インドと呼ばれ続けることになった。

コロンブスへの批判の眼差しへ

 1893年には、コロンブスの発見400周年を記念した万国博覧会がアメリカのシカゴで開かれた。これはシカゴ・コロンブス万博とも呼ばれた。この時期には、コロンブスにたいする批判的な視線はあまりみられなかった。ちなみに、これは半年間で2700万人ほどが入場した。日本も本格的な日本パヴィリオンを出展した。

シカゴ万博の様子

「閣龍」はコロンブスを指す

 20世紀半ばになると、アジアやアフリカにあるヨーロッパの植民地が次々に独立した。次第に、ヨーロッパの植民地支配が批判されるようになった。そのため、コロンブスの評価も複雑になっていった。当初はスペインの英雄だった。スペインに大きな植民地と利益をもたらしたからだ。だが、この植民地支配は先住民に大きな苦しみや滅びをもたらした面がある。そのため、コロンブス像はこの負の側面を帯びることになった。この流れは現在も発展している。ヨーロッパの博物館をめぐると、実感するかもしれない。

 コロンブスと縁のある都市:スペインのコルドバ

 上述のように、コロンブスはスペイン国王にインド航海の支援を得ようとして、コルドバを訪れた。そもそもスペイン国王がコルドバに滞在していたのは、レコンキスタのためにグラナダを陥落させるためだった。彼らはグラナダ攻略の拠点として、そこからやや離れたコルドバのアルカサルに滞在していたのだ。

 アルカサルはもともと要塞として建設された。コルドバはイスラム勢力が支配することになったので、アルカサルにもアラビアの建築様式が取り入れられた。スペイン国王がここを拠点とし、宮殿として利用した際にも、アラビアの建築が除去されたわけではなかった。彼らはスペインからイスラム勢力を追い出そうとする最中に、アラビア風の建物に滞在していたわけである。

 コロンブスは彼らにインド航海を提案すべく、アルカサルを訪れた。それゆえ、アルカサルの庭園には、スペイン王・女王にコロンブスが謁見している場面の石像が立てられている。コロンブスがどのような時代状況のもとでインド航海を提案していたのかが感じられる貴重な場所である。

 というのも、コロンブスのインド航海や、そもそもスペインとポルトガルの大航海時代は、当初からイスラム勢力にたいする十字軍という側面をもっていたためだ。上述のレコンキスタはもちろん十字軍の文脈で行われていた。その延長線上として、1415年のポルトガルによる北アフリカ進出が位置づけられる。この進出が大航海時代の始まりとして知られる。コロンブスにも、イスラムへの敵対意識があり、インド航海とも関連がみられた。

 それゆえ、アルカサルの雰囲気の中で上述の謁見のシーンをみることで、大航海時代の雰囲気をよりよく理解することができるだろう。

 さらに、コルドバにはメスキータもある。メスキータはイスラム勢力の支配下ではイスラムの礼拝所として利用された建物だ。レコンキスタのあとには、イスラムとユダヤ教とキリスト教で共有されていた。コロンブスの時代には、キリスト教の占有物となった。だが、イスラムの建築様式が今も色濃く残っている。コロンブスもここを訪れたという。ちなみに、世界遺産に登録されている。

画像をクリックすると、動画が始まります

 コロンブスと縁のある人物


スペイン女王のイサベル1世:コロンブスのインド航海事業を承認したスペインの女王。レコンキスタの達成も果たした。

エルナン・コルテス:スペインの探検家で征服者。コロンブスの死後、まもなくしてあのメキシコの大帝国を征服した。

コロンブスの肖像画

コロンブス 利用条件はウェブサイトにて確認

おすすめ参考文献


本井慶次郎『コロンブスとカリブ海』文芸社, 2011

E.ウィリアムズ『コロンブスからカストロまで : カリブ海域史、一四九二-一九六九』川北稔訳, 岩波書店, 2014
Douglas Hunter, The race to the New World : Christopher Columbus, John Cabot, and a lost history of discovery, Palgrave Macmillan, 2012

Elise Bartosik-Vélez, The legacy of Christopher Columbus in the Americas : new nations and a transatlantic discourse of empire, Vanderbilt University Press, 2016

タイトルとURLをコピーしました