エリザベス1世

 エリザベス 1 世は16世紀後半のイギリス(イングランド)の女王(1533ー1603) 。宗教改革の時代に生き、スペインの無敵艦隊アルマダに打ち勝つなどして、国内外での宗教と政治の問題に悪戦苦闘しながらも、イギリスのプロテスタント化を確立した。この記事では、エリザベスの性格や評価も説明する。

エリザベス1世(Elizabeth I)の生涯

 エリザベスはイギリス(イングランド)国王ヘンリー8世とアン・ブーリンの娘だった。幼い頃から人文主義的な教育を受け、優秀だった。ヘンリー8世の死後、すぐには王位につけなかった。むしろ、エドワード6世やメアリ1世の時代には、反体制の陰謀に加わったと疑われ、不遇の時期を過ごした。

 エリザベスの治世

 メアリ1世の死後、1559年に、エリザベスは女王に即位した。ヘンリー8世の時代、イギリスは英国教会というプロテスタントに移行した。だが、メアリの時期に、イギリスはそれまでの英国教会の諸法を廃止するなどして、カトリックに引き戻されていた。プロテスタントは外国へ亡命した。メアリは後のスペイン王フェリペ2世と結婚し、ローマ教皇庁との関係を回復し、強化していった。だが、1558年に没した。

当初の中道的宗教政策

 エリザベスは1559年、「国王至上法」と「礼拝統一法」を制定し、イギリスを英国教会に引き戻した。これらの法律がエリザベスの宗教政策の基礎となった。また、今日の英国教会の出発点ともみなされている。1563年に、「三十九か条」を制定した。

 エリザベスは当初、宗教面では穏健な中道的政策を実施した。英国教会をまず浸透させるためだった。また、北部のネヴィル家のように、カトリック支持の貴族が多く残っていたためだった。そのため、エリザベスは共通祈祷書を定めた際にも、カトリックのように、牧師には祭服の着用を義務づけた。

 しかし、プロテスタントの中には、教会での祭服着用やオルガンの使用に関して、宗教の改革が不徹底だとして、このような動向に反発する者がでてきた。彼らはピューリタンと呼ばれた。エリザベスはカトリックであれプロテスタントであれ、英国教会からの分離派には厳しく対処した。

 女王マリーのイングランド亡命

 その頃、1560年、スコットランドでも宗教改革が開始された。エリザベスはプロテスタント諸侯を支援し、宗教改革の成功に一役買った。というのも、スコットランドのカトリック王権はフランスと連携を組んでイングランドと敵対していたためである。その後、スコットランドには、スコットランド女王のマリー・スチュアートが嫁ぎ先のフランスから帰国した。

 カトリックを護持する女王マリーと、牧師ノックスらのプロテスタント勢力の対立が深まった。ついに戦争に至り、マリーが敗北した。1567年、マリーは親類のエリザベスを頼って、イギリスに亡命した。

 しかし、エリザベスはマリーを警戒した。というのも、マリーはイングランドの王位継承権をもっていたためだ。実際に、1569年、北部のネヴィル家はマリーの到来をエリザベス打倒のチャンスとみなし、反乱を起こした。エリザベスはこれを打ち倒した。かくして、イングランド北部を平定した。

 教皇との対立

 ここでローマ教皇庁が介入してきた。北部では臣民の多くがカトリックであった。同時に、エリザベスを支持していた。1570年、教皇ピウス5世はエリザベスに破門と廃位を宣言した。その結果、カトリックの信仰を保ちちながらエリザベス女王に服従することはイギリスのカトリックにとって教義上は難しくなった。

 というのも、ピウスの命令に従うならば、エリザベスは異端であり、もはや正統な王ではないからである。とはいえ、その後すぐにエリザベスが苦境に陥ったわけではなかった。だが、エリザベスはイギリスのカトリックへの政策を厳しくした。国教忌避者刑罰法を制定し、カトリックを世俗の犯罪者として厳しい処罰の対象にした。かくして、イギリスのカトリックの境遇が悪化した。

 スペインとの対立

 ちょうどその頃、1560年代後半から、イギリスとスペインの関係は悪化していった。この時期には、スペインの中南米植民地からスペインへと金銀などが海上で輸送されていた。イギリス海賊のホーキンスやドレイクなどがこれを奪おうとした。エリザベスは彼らの私掠活動を支援するようになった。

 また、両国は当時のフランスでの宗教戦争において、利害を異にしていた。さらに、フェリペ2世はカトリックの守護者を自認しており、イギリスをカトリックに引き戻したいと考えていた。かつてフェリペ2世は上述のメアリー1世の夫でもあった。

 さらに、低地諸国での反乱が火に油をそそいでいった。低地諸国(現在のベネルクス)はスペインの支配下にあったとはいえ、ある程度の自治が認められていた。だが、フェリペ2世は低地諸国の貴族の特権を従来とは異なる仕方で奪おうとした。これらが原因となって、1568年、一部の貴族たちがフェリペに反乱を起こした。

 1572年頃から、この反乱軍が次第にスペイン軍に勝利するようになった。エリザベスは低地諸国でこの反乱軍を支援した。低地諸国をスペインとイギリスの間の緩衝地帯として残しておきたかったためである。また、反乱軍の主導者とプロテスタントの結びつきが強かったのも一因である。

反スペインの言説

 このような背景のもとで、両国の対立が深まっていった。イギリスでは、反スペインの言説が情勢されていった。たとえば、スペインとローマ教皇庁が関連付けられ、特に異端審問が敵視された。異端審問は強欲で残虐である、と。さらに、低地諸国の反乱にかんしては、宗教的自由や寛容を求める低地諸国をスペインが異端審問によって迫害している、と。

 対立の結果、イギリスは経済的に危機を迎えた。それまで、イギリスは毛織物産業で利益をあげていた。その主な輸出先は低地諸国(現在のベネルクス)のアントワープだった。低地諸国はスペインの支配下にあった。よって、イギリスの毛織物製品はアントワープ市場から締め出されたのである。

 海外植民地建設の試み

 そこで、イギリスは別の市場を探し始め、東方貿易に活路を見出そうとした。また、次第にアメリカ貿易も真剣に検討し、1570年代からアメリカで試みるようになっていった。中米と南米は1500年代初頭からスペインとポルトガルが植民地建設を開始していた。イギリスは中南米進出を試みた。だが、両国に阻まれて失敗した。そのため、北米への進出を試みた。

正当化

 スペインとポルトガルによる妨害を受けて、イギリスはこの妨害を批判した。スペインとポルトガルは中南米の支配を排他的に行おうとしているが、これは不当だ、と。その際に、古代ローマで使用されていたローマ法を根拠として利用したことが知られている。アメリカはヨーロッパの外部に存在していたので、そこでの新たな土地取得の正当性はイギリスやスペインの国内法では論じるのに無理があったためだ。それにたいし、ローマ法は諸国家の間でも通用する法として認知されていた。

 同時に、エリザベスは北米進出をジョン・ディーに正当化させた。ディーはマドック神話を用いた。イギリスがコロンブスよりも前に北米に進出しており、そこをイギリスに組み込んでいたと論じた。そのため、北米を発見し、先占し、時効によって取得したと正当化した。

 他方で、エリザベスは1555年にアイルランドに侵攻した。その際の正当化が北米進出の正当化に利用されることになる。たとえば、アイルランドで土地が利用されていないといわれた。土地は神が人間に与えたものなので、有効に活用しなければならない、と。あるいは、アイルランドへの進出は先住民を文明化するためだと主張された。

計画の失敗と情報収集

 イギリスはこのような仕方で北米植民地の獲得を正当化した。だが、肝心の植民活動に失敗し続けた。そのため、結局、エリザベスの時代には北米植民地は形成されなかった。

 それでも、イギリスは海外植民のためにアンテナをしっかり張って情報収集をするようになった。スペイン人やポルトガル人による旅行記や征服記などが次々と英訳されていった。イギリス人も自ら同様のジャンルの著作を生み出していく。その結果、たとえば秀吉の朝鮮征服の情報はすぐにポルトガルやスペインのみならずイギリスでも知られるようになった。

 アルマダの海戦へ

 1580年代後半になると、エリザベスは困難な状況に置かれた。1587年、エリザベスにたいする陰謀が発覚した。これには、上述の亡命中だった女王マリーが加担していた。よって、マリーは処刑された。スペインや教皇庁はこれを殉教とみなした。

 他の原因もあいまって、スペイン王フェリペ2世はついにイギリスへの進軍を決意した。1588年、無敵艦隊アルマダを派遣した。だが、ドレイクらの活躍により、イギリスがアルマダの海戦で勝利した。ただし、両国の戦争はこれで終わったわけではなかった。むしろ、エリザベスの時代には終結しなかった。

 このスペインのアルマダ襲来が一因となり、イギリスでは反カトリックの気運がさらに高まっていった。というのも、フェリペ2世がカトリックの守護者を自認しており、イギリスをかトリック化するのがアルマダの主な目的だったことは知られていたからである。それまでスペイン人はイギリスで貪欲で専制的だとみなされていた。アルマダの敗北により、さらに臆病で無能だといわれるようになった。他方で、イギリス人はこの勝利は神のおかげだと喧伝した。

晩年と死

 その後、イギリスは自国での戦費やネーデルラントとフランスでの軍事支援の費用などで、財政が悪化していった。さらに、1594年から農業が不作となった。疫病やインフレに襲われた。重税などの重荷に耐えかねて、反乱が生じるようになった。カトリックとピューリタンがイギリス王権の敵として弾圧の対象になった。エリザベスはこの苦境を脱しきれないまま、1603年に没した。なお、未婚のまま没したので子供はいない。

 エリザベスの性格

 エリザベスは聡明な人物として知られた。気性の激しさでも知られたが、忍耐強さも兼ね備えていた。当時においても、スペインのアルマダのような危機に直面しても、ライオンのような強い精神をもち、スペインの悪を断固として打ち砕いた、というように評されてた。
 このような忍耐強さや精神性は生来の性格に由来する面もあるかもしれない。だが、同時に、イギリスの君主として成長した結果でもあった。その背景として、特に、エリザベスは西欧の女性嫌いの伝統に立ち向かう必要があった。古代ギリシャの頃から、女性は男性よりも劣っていて不完全であり、君主には不適合だと論じられてきた。エリザベスの直前の時期にも、スコットランドの神学者ノックスがメアリー1世の支配を批判する上で、女性がいかに君主として不適合かを著作で大々的に論じた。エリザベスは即位後、この本に嫌悪感を示した。エリザベスはこのような女性嫌いの伝統に死ぬまで立ち向かわねばならなかった。そのため、当時男性的と思われる美徳を習得しようとした。あるいは、そのような美徳をもっているかのように振る舞った。

当時の評価:人気の理由(と不人気さ)

 エリザベスは存命中からどのように評価されてきたのか。一つは、宗教改革に由来する評価である。イギリスはエリザベスの父ヘンリー8世によって英国教会のプロテスタントになり、メアリー1世によってカトリックに戻された。その後、イギリスで英国教会を確立したのはエリザベスだった。よって、当時においても、イギリスでのプロテスタントの確立者とみなされた。だが同時に、エリザベスはイギリスの宗教の内実を改革する上で、多くの人からは不徹底だとみなされた。そのため、イギリスの宗教改革を制度的に確立したが、その内実にかんする改革を不完全で不徹底なまま終わらせた人物として捉えられた。
 その他の評価としてよく指摘されるのは、処女性である。処女性は中世キリスト教において、貞節を意味するものとして高く評価された美徳だった。特に中世では聖母マリア崇拝が盛んであり、マリアは処女性の貞節によって汚されていないという点でも賛美されていた。エリザベスの時期のイギリスの宗教は多くの面でカトリック的性格を残していた。
 このような状況で、1580年代から、エリザベスが50代になった頃から、エリザベスは処女性のイメージと結び付けられるようになった。出産の期待が失われたと思われた時期からである。エリザベスの処女性(ヴァージン)を称えて、この時期のイギリスが探検して発見した北米エリアはヴァージニアと名付けられた。
 だが、プロテスタンティズムのイメージと同様に、この処女性のイメージもまた否定的側面を伴っていた。エリザベスは当然ながら子供がいなかった。エリザベスのチューダー朝には、他に後継者がいなかった。そのため、ほかに後継者がいない状況で、エリザベスの不妊が決定的となった。後継者問題はしばしば国家に内紛をもたらす非常に重要な問題とみなされてきた。実際、ヘンリー8世がカトリック教会を離れて英国教会を設立した直接のきっかけは後継者問題を解決するためだった。エリザベスは生涯処女であるために、後継者問題を悪化させ、国家を不安定にしている。処女性にはそのような意味合いも込められた。

エリザベス2世との関係?

 ちなみに、20世紀のエリザベス2世の名前はエリザベス1世ではなく、2世の母エリザベスにちなんでつけられた。ミドルネームのアレクサンドラとメアリーは父方の祖母と曾祖母にちなんでいる。

 エリザベス1世と縁のある人物

ヘンリー8世:エリザベスの父でイギリス国王。ヘンリーはイギリスの宗教改革を実現し、イギリス史の大きな転換点をつくった。エリザベスは多くの点で父の政策を踏襲した。そのため、エリザベスについて知るには、ヘンリーについても知るのが望ましい。

フェリペ2世:アルマダをイギリスに派遣するなどして、エリザベスの天敵となったスペイン王。とはいえ、かつてのイギリス女王のメアリー1世(エリザベス1世の姉)の夫でもあった。フェリペはスペイン帝国の最盛期を迎えており、イギリス以外とも同時に戦争を行っていた。アルマダを派遣したフェリペ側の事情はどのようなものだったか。

エリザベス1世の肖像画

エリザベス1世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

青木道彦『エリザベス女王 : 女王を支えた側近たち』山川出版社, 2014

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

Peter Ackroyd, Tudors : the history of England from Henry VIII to Elizabeth I, St. Martin’s Griffin, 2014

Ken MacMillan, Sovereignty and possession in the English new world : the legal foundations of empire, 1576-1640, Cambridge University Press, 2006

Susan Doran(ed.), The myth of Elizabeth, Palgrave Macmillan, 2003

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