フェリペ4世:スペイン文化の黄金期

 フェリペ4世はスペイン国王(1605ー1665)。在位は1621−65年。文芸を好み、ベラスケスらのパトロンになって、スペイン黄金時代の文化発展を支えた。当初、政治は寵臣オリバレスに任せた。だが、これからみていくように、フェリペ4世が政治に無関心だったという通説は修正されつつある。30戦戦争やカタルーニャとポルトガルなどの反乱に苦しんだ。

フェリペ4世(Felipe IV)の生涯

 フェリペ4世はフェリペ3世と神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の妹マルガレーテの子。フェリペ3世の逝去に伴い、1621年にスペイン王に即位した。また、当時はポルトガルがスペインに併合されていた。そこで、同年、ポルトガル王にも即位した。

 オリバレス公による統治

 フェリペ3世は寵臣のレルマ公に政治を多くの面で任せていた。同様に、フェリペ4世もまたオリバレス公を宰相に選び、多くの面で実権を委ねた。当初、オリバレスはフェリペ4世がフェリペ2世のような偉大な王になることを望み、そのための教育プログラムも準備した。政治のみならず様々な言語や学芸を学ぶという内容である。

 しかし、フェリペ4世は聡明な王だったが、自ら統治するのを望まず、少なくともこの頃は怠惰だったと評されている。それゆえ、当面のスペイン政治は多くの面でオリバレス公が主に決定していた。その結果、オリバレス公やその他の取り巻きが宮廷の要職を占めるようになった。王は彼らの協力を得るために、様々な恩顧を与えようとした。

 30年戦争の始まり:ハプスブルク家の支配

 オリバレス公のもと、スペインは30年戦争に参加することになった。16世紀後半から、スペイン王はネーデルラント(オランダやベルギーなどの地域)の主君をつとめていた。だが、反乱がその地域で開始された。16世紀末には、オランダが独立を目指した。一時休戦になったが、1621年から戦争が再開された。スペインはオーストリア・ハプスブルクの神聖ローマ皇帝と協調しながら、この戦争を当初有利に進めた。

 1620年代、フェリペ4世は大病を患い、回復した。その頃から、以前よりも王としての職務を自覚し、行うようになった。オリバレスと対立することもあったが、両者は協調しながらスペインの統治を行った。

 30年戦争にフランスが参戦することにより、事態が大きく変わった。さらに、1640年、併合されていたポルトガルが再独立を目指して反乱を起こした。同時期に、スペインのカタルーニャでも反乱が生じた。これら2つの反乱が主な原因となって、スペインは30年戦争で劣勢に陥った。フェリペ4世は劣勢を挽回させるようとして、カタルーニャへ自ら遠征した。だが、失敗した。マドリードに戻った後、オリバレス公を罷免した。

 1640年代の混乱

 その後、フェリペ4世は自ら政治を主導するという移行を示した。だが、ルイス・メンデス・デ・アロを信任し、依存する場面もでてきた。フェリペ4世がどれだけ自ら実権を握ったのか、あるいはアロに政治を任せたのかについては、議論が割れている。

 フェリペはカタルーニャの反乱を終わらせることに力を注いだ。1648年には、ついに30年戦争が終結し、スペインは敗北した。その頃、スペイン領のナポリなどで反乱が起こり、これもフェリペにとっては痛手となった。

 1650年代の回復

 1650年代に入り、ようやくカタルーニャの反乱が収束した。しかし、フェリペ4世はいまだに続いていたフランスとの戦争に取り組まなければならなかった。1655年、イギリスがスペインに宣戦布告した。これを背景に、スペインはフランスとの戦争終結に動く。1659年、ついにピレネー条約が結ばれ、戦争は終わった。これにより、ヨーロッパでのそれまでのスペインの優位の時代は終わり、フランスの優位の時代が始まると考えられている。

 この条約で、フェリペ4世の娘マリアとフランス王ルイ14世の結婚が取り決められた。マリアはスペイン王権の後継者となっていたので、この政略結婚が18世紀初頭のスペイン継承戦争の火種となる。

 王権と有力貴族の財政事情

 フェリペ4世の時代、スペイン王権はエンコミエンダを政治の道具として再活用し始める。エンコミエンダとは、アメリカの先住民への教育など行う代わりに彼らから貢納を受ける権利である。16世紀前半、エンコミエンダはアメリカでの征服者にたいして征服事業への見返りとして与えられていた。だが、スペイン王権は征服者や植民者が封建貴族になるのを恐れ、エンコミエンダに規制をかけた。そのため、植民者はそこから利益を得るのが難しくなっていった。
 17世紀に入り、スペインの多くの有力貴族が深刻な財政難にあった。16世紀末から17世紀半にかけて、疫病や農業危機が起こったため、彼らの収入源だった地代が減ったためである。さらに、有力貴族の重要資産だった長期国債は王権の財政破綻で大きく価値を減じた。

 また、国内の主要通貨だった銅貨が切り下げられていった。長期国債は銅貨で支払われていたので、長期国債の資産敵価値はますます減少した。特に、1620年代の戦争再開により、スペイン王権は従来の莫大な債務に加えて戦費を新たに寝出する必要が出た。その結果、銅貨を改悪して大量発行したため、銅貨の危機が生じた。よって、国内の有力貴族は広大な領地と莫大な資産を持っていたにもかかわらず、債務の支払いにさえ困窮していた。
 そこで有力貴族が欲したのはアメリカの銀だった。スペイン領アメリカ植民地では、特に1570年代以降から金銀の採掘が本格化し、スペイン王権の国庫を潤した。17世紀前半のスペインでは、銅貨と異なり、アメリカ銀は額面以上の価値があった。王権はこれを諸方面での戦争で大量に消費した。そのため、銀を直接的に有力貴族に与えるのは難しかった。

 とはいえ、上述のように、王権は有力貴族の協力を必要とした。そこでエンコミエンダの権利を彼らへの恩顧のために利用し始めた。かくして、この時期のスペイン領アメリカでは、スペイン貴族のエンコミエンダ所有者が急増した。その結果、スペイン領アメリカの富の大部分が本国へ流れるようになった。

 晩年

 フェリペ4世はポルトガルの独立をなんとしてでも阻止しようとしていた。スペインの財政はすでに逼迫していた。フェリペ自身の健康も悪化していた。だが、1660年代に入っても、ポルトガルへの進軍を行った。ポルトガルはイギリスと同名を組んでこれを撃退した。1665年、フェリペは念願を果たせぬまま病没した。

 フェリペ4世の文芸への支援:ベラスケスなどの活躍

 フェリペ4世自身は幼少期から芸術に愛好をもつようになっていた。政治から離れ、美術や学芸、狩猟や乗馬などに没頭していた。自ら詩作もした。即位して間もなく、1623年には、スペインの代表的な画家ディエゴ・ベラスケスを宮廷画家に任命し、その制作活動を支援した。その弟子のバルトロメ・ムリーリョをも宮廷画家に任命し、支援した。

 1630年代には、マドリード郊外にブエン・レティーロ宮殿を建築した。ここを宮廷生活の中心地とし、画家のみならず詩人などの文芸活動も支援した。ロペ・デ・ベガなどの文人がフェリペの後援のもとでスペイン文学を発展させることになった。このように、フェリペは文化のパトロンとしては重要な役割を担った。

 当時の芸術は王権の威厳を高める道具でもあった。スペインは広大な帝国を維持しまとめあげるために、豪華な祝祭などの公的行事を利用したのである。そのため、パトロンとしてスペイン文化の発展を促進することは王権の威厳を高めるのに役立った。特に、この時代のスペインは自国の名声や名誉を重んじていたので、スペイン文化や芸術のこの側面は重要だった。フェリペ3世や4世はフェリペ2世のスペイン最盛期からの没落を意識しており、スペインの名声は外交政策の中心的な概念となっていたほどだった。

 フェリペ4世と縁のある人物

オリバレス公:フェリペ4世のもとで実権を握った宰相。政治経済ではフェリペ自身よりも重要だった。

ムリーリョ:フェリペの宮廷で活躍した画家。スペイン黄金時代の代表的な画家の一人

フェリペ4世の肖像画

フェリペ4世 利用条件はウェブサイトにて

19世紀フランスの代表的な画家エドゥアール・マネによるフェリペ4世の肖像画

おすすめ参考文献

佐竹謙一『浮気な国王フェリペ四世の宮廷生活』岩波書店, 2003

立石博高編『スペイン帝国と複合君主政』昭和堂, 2018

安村直己編『南北アメリカ大陸 : ~一七世紀』岩波書店, 2022

Alistair Malcolm, Royal favouritism and the governing elite of the Spanish monarchy, 1640-1665, Oxford University Press, 2017

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