フェリペ5世

 フェリペ5世は18世紀前半のスペイン国王(1683 ー1746)。在位は 1700−46。スペイン継承戦争を経て即位し、スペインでのブルボン朝の創始者となったことで知られる。国内ではフランスの影響を受けながら王権を伸長し、諸制度の改革を進めた。対外的には、継承戦争で失われたイタリアでの領地を回復した。

フェリペ5世の生涯

 フェリペ5世はフランスのヴェルサイユ宮殿で、フランス王太子のルイの息子として生まれた。王太子ルイはフランス王ルイ14世の息子だったので、フェリペ5世はルイ14世の孫だった。そのため、ヴェルサイユ宮殿で生まれた。

 また、フェリペ5世の曽祖父はスペイン王フェリペ4世だった。フランスの宰相だったマザランの婚姻政策の結果として、フェリペ5世はスペイン王位継承権とフランス王位継承権の両方を持つ者として生まれた。

 フェリペは当面はアンジュー公に叙され、活動していた。1701年、フェリペはスペイン王フェリペ5世として即位した。スペインの主要都市をめぐり、王として歓待された。

 スペイン継承戦争へ

 1700年、スペイン王カルロス2世が子孫を残さずに没した。その際に、カルロスはスペイン王の後継者としてフェリペ(5世)を指名した。また、フランスのルイ14世はフェリペ(5世)をフランスの王位継承者の一人として認めた。

 そのため、イギリスやオランダなどはフェリペ(5世)がスペイン王に即位することに反対した。というのも、この即位によって、フランスのブルボン朝がスペインをも支配するようになる可能性があったためである。

 おりしも、神聖ローマ帝国の(後の)カール6世がスペイン王位の後継者であると宣言した。そこで、カールとフェリペがスペインの王位継承権をめぐって争いを始め、スペイン継承戦争に至った。フェリペはマドリードやバルセロナを占領されるなど、危機的な状況に陥ることもあった。

 この戦争は1713年のユトレヒト条約で終わった。その結果、フェリペ5世がスペイン王に即位した。スペイン本国と中南米の植民地を相続した。だが、スペイン領ネーデルラントやイタリアでの領地を失った。また、フランスの王位継承権も失った。かくして、スペインとフランスの結合は回避された。

 フェリペ5世の治世

 フェリペ5世の支配は、フランスの顧問たちの影響を当初強く受けていた。フランスと同様に商工業の振興策を打ち出した。たとえば、織物や陶磁器の生産を奨励し、重商主義政策を打ち出した。

 また、スペイン全体で王権を確立し、カスティーリャと同一の制度を諸地域に適用しようとした。それまでは、地域ごとに税制や議会、司法などの制度が異なっていたのである。自国の教会にたいする王権を確立しようとし、ローマ教皇庁と衝突した。ほかにも、様々な王立アカデミーを設立し、王立図書館を設立し、文芸の発展を後押しした。かくして、スペインのブルボン朝(ボルボン朝)が始まり、フランス政治の影響がいろいろな面でみられるようになる。

 たとえば、フェリペ5世は中南米植民地との独占貿易を諦めた。それまで、スペインは中南米植民地の貿易への他国の参加を認めなかった。だが、フェリペ5世はペルーへのフランス商人の入港をみとめた。ペルーはかつてインカ帝国が存在した場所であり、ポトシ銀山という非常に重要な銀山があった。よって、南米植民地の中心地だった。そこでの商業活動をフランスに認めたのだ。

 さらに、イギリスには、中南米植民地への奴隷輸出のアシエント契約を行った。すなわち、植民地での砂糖栽培などに必要な黒人奴隷をアフリカから中南米にもたらす役割をイギリスに認めた。イギリスはこれにより莫大な利益をあげることになる。

 また、パルマ公の姪と結婚してからは、彼女の影響もみられた。ユトレヒト条約で失われたイタリアのパルマやシチリア、ナポリを支配下に置いた。しかし、同じ条約で失っていたジブラルタルを取り戻すことはできなかった。

 フェリペ5世と縁のある人物

ルイ14世:フェリペ5世の祖父で、フランス王。フランス絶対王政を確立した王として知られる。フェリペの政策の多くはルイ14世のフランスの政策に影響を受けていた。それはどのようなものだったのだろうか。

フェリペ5世の肖像画

フェリペ5世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

川成洋『スペイン通史』丸善出版, 2020

Henry Kamen, Philip V of Spain : the king who reigned twice, Yale University Press, 2001

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