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フランス革命:その全体の概略

 フランス革命は18世紀末にフランスで起こった大革命。長らく、ブルジョワ革命だと目されてきた。だが、この見方は史実に合わず、もはや学術では通用していない。
 フランス革命はフランスの封建制を崩壊させ、近代化をもたらした。ナポレオン戦争によって、甚大な影響がヨーロッパ全体に波及し、全世界に広まっていった。そのため、今日において、世界史の出来事の中でも特に重要視されているものの一つである。
 この記事では、フランス革命の背景や展開、意義や影響を説明する。政治的・経済的側面だけでなく、演劇などの文化面もみていく。
 ちなみに、見出しタイトルに【より詳しく】と書かれた箇所は、発展的内容である。フランス革命の概略だけを知りたい場合には、読み飛ばしても問題ない。

フランス革命の大まかな流れ

 フランス革命の流れをおおまかに示すと、次のようになる。1789年7月のバスティーユ監獄の襲撃で、フランス革命が始まる。国民議会が主体となり、フランスという国のかたちを大きく変革していく。貴族という身分は消滅し、領主はいなくなる。人権宣言が出され、新しい国のかたちが模索される。
 1791年に議会はヨーロッパで最初の成文憲法を制定し、フランスは立憲君主制に至る。国王のパリ脱出計画の失敗の後、議会は王権を廃止し、フランスは共和制に至る。国王夫妻は処刑される。
 国内外で反革命の勢力が台頭し、力づくで革命を失敗させようとする。議会は危機的状況に陥る。これを乗り切るために、1793年、ロベスピエールらのジャコバン派が議会を支配し、独裁をしき、恐怖政治を始める。経済を統制しながら、危機を乗り越える。
 1794年、危機が弱まる。ロベスピエールの恐怖政治がクーデターによって終わりを告げる(テルミドールのクーデター)。テルミドール派は彼の恐怖政治を過去の産物にしようとし、諸改革を勧める。だが、恐怖政治への復讐が繰り広げられ、その負の遺産に苦しめられる。
 1795年、総裁政府が成立する。共和主義という革命の成果の発展と、治安の維持を、主な目標とする。だが、負の遺産が重くのしかかり、反革命の勢力が復活してくる。総裁政府はついに治安維持を優先し、革命の理念(法の支配など)を大いに無視して、強権的な支配に至っていく。独裁的な政府へはあと一歩である。
 その頃、ナポレオンが対外戦争で軍人として人気を得る。1799年のブリュメールのクーデターで総裁政府を打倒し、新たな体制に移行する。ここで革命は幕を閉じる。ナポレオンの独裁体制に至っていく。

 フランス革命の背景や原因とは?

 革命の背景や原因としては、政治的あるいは文化的なものが指摘されている。より具体的には、アンシャン・レジームという旧来の制度の問題点や、そこでの財政問題、啓蒙思想がしばしば指摘されている。

身分社会という原因

 フランス革命はそれまでの伝統的な制度(アンシャン・レジーム)への反発として生じたと考えられてきた。たしかに、そうだといえる面もある。

貴族と聖職者が平民に支えられている、というより平民を押しつぶしそうになっている。1789年公刊

 だが、従来考えられてきたほど、この問題は単純ではない。
 まず、フランスのアンシャン・レジームについて確認しよう。これは、王以外に、3つの身分で構成される身分社会である。聖職者という第一身分と、貴族という第二身分、平民の第三身分である。ブルジョワジーは第三身分に属する。聖職者や貴族は免税などの様々な特権を享受したのに対し、平民は特権を得られず、むしろ重税に苦しんだ。
 フランス革命は、第三身分の特にブルジョワ階級が特権身分の貴族との勢力争いを繰り広げた結果として生じたものだと考えられがちである。だが、この見方は単純すぎ、不正確である。
 というのも、そもそも18世紀、フランスの貴族は多種多様であり、一枚岩ではなかったからである。むしろ、貴族同士が相互に批判し、対立していた。この貴族内部での分裂や対立がフランス革命の一因にすらなっていく。

啓蒙思想という背景

 18世紀、フランスではヴォルテールやルソー、モンテスキューらの啓蒙思想が発展した。これらはしばしばアンシャン・レジームを批判し、あるいは敵対的な理論を展開した。この思想が当時の人々の考えに影響を与え、フランス革命の一因となったと考えられている。
 ただし、啓蒙思想とフランス革命の因果関係にかんする精密な実証研究はまだ途上にある。

外交にかんする背景

 18世紀、フランスの国力は衰退していった。この衰退は、特に七年戦争(1756-63)の後に顕著となる。この戦争でフランスは海外植民地の大半を宿敵イギリスに奪われた。
 その後のフランス王権の外交政策がフランス革命の一因となった。たとえば、王妃マリー・アントワネットである。アントワネットはオーストリアのハプスブルク家の出身である。
 当時、アントワネットはフランスの国益を犠牲にしてオーストリアのために立ち働いているのではないか、と論じられた。フランスの衰退の一因はマリー・アントワネットの外交政策にあるのではないかと論じられていたのである。これが王権への不満を高めていった。

財政問題という原因

 フランス革命の直接的な原因としては、この時期のフランス財政の悪化が知られている。ルイ16世が国王に即位した1774年の時点で、フランスは多額の負債で苦しんでいた。ルイは様々な大臣を用いて、様々な改革を試みた。だが、うまくいかなかった。
 しかも、大西洋の向こうでは、1775年から、イギリスの北米植民地が宗主国のイギリスにたいして戦闘を開始した。アメリカ独立革命である。ルイはアメリカ植民地を支援し、独立の達成に貢献した。だが、その莫大な戦費がフランス財政をさらに悪化させることになる。
 1787年、事態はついに大きく動いていく。財務総監のカロンヌは財政改善のために、名士会を招集した。特権身分たる貴族たちにも課税しようとしたのである。免税は彼らの伝統的な特権の一つであった。そのため、特権身分は猛反発する。高等法院もまた特権身分に味方した。カロンヌは辞職を余儀なくされる。
 1788年、ネッケルがその後任者になる。第三身分との交渉の中で、全国三部会を招集することになる。この三部会が革命の中核となっていく。

※フランス革命の背景と原因について、より詳しくは次の記事を参照

フランス革命の展開

 国民議会の成立

 全国三部会が1789年5月にヴェルサイユ宮殿で開催された。第一身分と第二身分の聖職者と貴族の議員は300人ずつ、第三身分は約600人だった。彼らは合同で討議をすることになる。6月には、三部会が国民議会になる。
 この三部会の初期には、議員たちの大半は革命を起こそうというつもりはなかった。主に財政改革を進めるつもりだった。
 だが、彼らは次第に国民議会を、それまでに前例のないほど抜本的な変革の場として利用し始めた。主に第三身分の議員たちがヴェルサイユ宮殿近くのテニスコートに集まり、王の大権や特権身分に対抗する意志を示した。いわゆるテニスコートの誓いである。

テニスコートの誓い

 そこから、彼らは新たな憲法の作成を開始した。この時代、ヨーロッパには成文憲法は存在しなかった。かくして、議員たちは王権への不満や抵抗から革命へと進んでいった。

 革命の始まり:バスティーユ監獄の襲撃

 1789年7月11日、ルイ16世は悪化していく事態の責任を宰相ネッケルにとらせた。パリ市民はこれで勢いをえた。7月14日、彼らはパリのバスティーユ監獄を襲撃した。ここには、政治犯が投獄されていた。

 また、これは王権の武器庫になっていた。パリ市民はその占拠に成功した。かくして、革命が始まった。現代でも、7月14日が革命記念日となっている。

バスティーユの襲撃

 パリ市長だったフレッセルらが市民に殺害された。市民はその頭を切り離し、槍に刺して、市内を凱旋して練り歩いた。このような光景は、革命に賛同的でない人々に、革命や民衆への恐怖や嫌悪感をもたらした。暴徒化した民衆は大胆に暴れまわった。敵視された人々を実際に処刑したり、あるいは模擬処刑を行い、自分たちが正しいことをアピールした

 地方では、農村などでアンシャン・レジームに敵対的な反乱や暴動が起こった。そもそも、当時のフランス人の8割以上が農民だった。革命前夜から、彼らはアンシャン・レジームでの財政負担の重さや、特権身分の特権にたいして、反発を示すようになっていた。

 苦しい現状を変えるべく、これらの地方は代表者の議員を三部会に送っていた。三部会が国民議会に変わった後も、議員たちは出身地方との交渉を続け、革命を推進していく。 

 アンシャン・レジームの解体へ

 そのような背景のもと、8月4日、国民議会では画期的な決定がくだされた。アンシャン・レジームでの封建的な特権や領主制が廃止されることになったのだ。その結果、貴族という身分が少なくとも形式的には消滅した。フランスには、もはや貴族は存在しなくなったのである。
 領主制は貴族らが地方を領主として治めるという仕組みである。領主は領地内の農民たちに重い財政負担を強いており、彼らを統治し、彼らの罪を裁いていた。そのような制度が廃止された。ただし、この廃止は実質的にはまだ部分的なものだったが。

 フランス人権宣言

 8月26日、議会は有名な人権宣言を採択した。ラ・ファイエットやシエイエスが草案を作成した。そこでは、国民主権、法の下の平等、人間の生来の自由などの理念がうちだされた。これらの基本理念が受け入れられていなかったフランス社会で大胆に示されたのである。

フランス人権宣言

 その結果、実質的に、フランスはこれらの理念をどう具体的に実現するかを実験する場となっていく。同時に、人権はフランス革命に目的を与えることになった。新聞などの報道機関や政治クラブが多数誕生し、この運動を盛り上げていく。

 革命の終結を目指して:立憲君主制の推進

 フランス革命は1799年まで続いたと一般的に考えられている。よって、現代人の我々からすれば、1790年頃はまだまだ革命が始まったばかりだということになる。しかし、この時期に活動した国民議会の議員たちはそう考えていなかった。むしろ、憲法を制定することで、革命を完結しようと試みた。
 この革命初期は、国民議会が立憲君主制の実現を目指した時期だった。この時期に活躍したラファイエットやミラボー伯爵らは、立憲君主制の支持者だった。彼らは既存のフランス王権を新たな憲法によって制限する制度を求めた。
 革命派には、共和主義を支持する急進派も存在した。だが、この時点での主流派は立憲君主制の支持者だった。
 この立憲君主制の動向に対して、国王自身はどう反応したのか。ルイ16世は立憲君主制に反発したと考えられがちである。だが、実際には、革命勃発以前から、立憲君主制には好意的だった。ルイ14世のような絶対王政を求めてはいなかった。さらに、国民議会の諸改革にたいしても、この時期は好意的であり、協力もした。
 だが、上述のように、王権は当初から民衆の不満の的であった。そのため、ルイ16世ら王族は民衆によってヴェルサイユ宮殿からパリへと連行された。王族はパリのチュイルリ宮殿に住むようになった。ただし、この時期において、彼らはまだ厳重な監視下におかれていなかった。

 ヴァレンヌ逃亡事件

 国際問題などが契機となって、ルイは国民議会と対立を深めていく。ルイはミラボー伯爵をひそかに味方に引き込もうとするなどして、事態の打開を図った。だが、事態は膠着していった。
 1791年6月、ルイは事態の打開を図るべく、ヴァレンヌ逃亡事件を起こす。これはルイが妻のマリー・アントワネットらとともにパリを脱出し、国境付近の安全な都市まで移動するという計画である。

 その場所で身の安全を確保したうえで、自身に有利な仕方で国民議会と交渉しようとしたようだ。だが、準備不足により、この計画は失敗した。ルイらは捕まり、パリに連れ戻された。

 シャン・ド・マルスの虐殺

 ヴァレンヌ逃亡事件の影響は大きかった。フランス王権への逆風が一気に強まったのである。上述のように、ルイ16世は革命での改革に前向きなことが多かったので、その人気はそれまで必ずしも低くはなかった。だが、その王が逃亡しようとした。これが王への反感を一気に高めた。
 パリ市民はパリのシャン・ド・マルスに集まり、王制を廃止するよう訴えた。だが、立憲君主を支持するラ・ファイエットは国民衛兵を用いて、この運動を武力で鎮圧した。ラファイエットの人気も下がることになる。だが、王権廃止の運動は、すなわち共和主義の運動は消え去ることなく続いていく。
 民衆がこのように急進的な運動を起こしたので、国民議会の議員たちは憲法の制定を急いだ。憲法の完成による立憲君主制への移行を通して、フランス革命を完了させるつもりだった。

 そのため、革命開始後に花開いた報道や政治クラブなどへの締付を開始した。それらを扇動や名誉毀損として訴追できるよう法律を制定し、それらが議会を自由に批判するのを封じ込め始めた。

 1791年憲法:立憲君主制の成立

 1791年9月、ついに憲法が制定された。これは1791年憲法である。国民議会は2年間をかけて、この憲法の制定にこぎつけた。かくして、フランスは正式に立憲君主制となった。 
 この憲法では、一院制の議会が設立された。これは立憲議会と呼ばれる。ただし、国民の政治的権利は制限されていた。投票権も参政権も一定の財産を持つ者だけに限られた。よって、労働者や大半の農民はそこから除外された。これは革命へのある種の反動といえる。

 以上の革命初期を代表する政治家のミラボーとラファイエットについて、詳しくは次の記事を参照

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革命初期の地方の動き

 この革命初期において、地方では多様な動きが見られた。当時のフランスは地方によって特色が大きく異なったので、農民たちの行動や要求も一様ではなかった。それでも、しばしばみられたのは、封建制度や税金への反対や、農地改革をめぐる争いである。
 こうした争点をめぐって、地方の人々はパリの国民議会の代議士たちと交渉した。革命の改革プログラムをこれらの点へと拡大するよう圧力をかけた。この時期の地方は革命の進展にたいして期待と不安を抱いていた。革命に危惧を抱く面もあったが、まだ反革命といえるほどではなかった。

教会との関係

 この時期、国民議会はカトリック教会を国家の支配下に置き、制度的にも大きな変革をもたらした。なぜなら、議員たちはアンシャン・レジームでのカトリック教会が教育など多面的な仕方で国家に問題を引き起こしてきたと考えていたためである。そこで、たとえば、議会は教会の教区制度や修道院などを廃止した。
 革命と教会の関係は、当時の演劇でも取り上げられた。従来の教会の悪弊を描き、革命の理念を商用するようなものが登場し、パリなどで大ヒットとなった。

 アイデンティティの変容

 以上の大きな変革はフランス人のアイデンティティを大きく変えていく。既成のアイデンティティはなかなか変化しないものだと思われるだろう。だが、フランス革命では、大きな変化が生じた。もっとも、反動も起こっていくが。
 たとえば、バスチーユ監獄の襲撃の際のパンフレット『パリの革命』のモットーが興味深い。それは「私たちがひざまずいているから、私たちから見れば上の者たちは大きく見えるだけだ。 立ち上がろう!」であった。これは民衆に投げかけられた言葉である。
 それまで、革命の参加者たる民衆は王権の臣下であり、領主たる貴族ら特権身分の従属者だった。かつては身分社会だったので、民衆は生まれながらにして王侯貴族への服従を運命づけられていたのである。その結果、民衆は彼らを、自分の上にそびえ立つような権威者として仰ぎ見ていた。
 だが、革命による封建制度の解体の結果、状況は大きく変化した。新たな状況下で、上述のモットーは民衆にこう訴える。王侯貴族がそのように「偉い」のは、彼ら自身の性質ゆえではない。自分たち民衆が卑屈にひざまづいていたから、偉いように見えただけだ。民衆は立ち上がり、本来の関係に戻ろう、と。
 民衆や(元)貴族たちのあるべき本来の関係として、人権宣言が提示された。たとえば、法の下の平等である。すなわち、法律上は、すべてのフランス人は平等である。他に、全国民がフランスの愛国者たるべきことでもある。
 フランス革命のこの後の動向によって、いくつかの新たなアイデンティティは揺り戻しを受けることになる。だが、この二点はフランス革命のあとも根付くことになる。

革命初期の経済

 革命は自由主義経済を推進し、部分的にのみ達成していった。まず、特権身分の解体などによって、封建的な諸制度を解体したことが重要である。
 だが、革命を起こしたばかりの政府は慢性的な資金不足だった。さらに、個人の自発性を信じるあまり、政府は経済発展のための直接的な支援をほとんどすべて放棄した。
 同時に、政府は財政改善のために、1789年、カトリック教会の土地を強制収用した。教会の土地を国有化し、翌年には競売にかけた。そのほとんどが裕福な都市中産階級や裕福な農民の手に渡った。
 なお、1793年には、王侯貴族の土地の大部分も同様に競売にかけられることになる。この土地の再分配と小規模農業の増大が革命後もフランス社会に大きな影響をもたらすことになる。
 政府は没収した教会財産を担保に、アッシニアの国債を発行した。当初、政府は3%の利子を支払った。これが翌年に利子がつかなくなり、法定通貨になった。
 他方、民衆もまた経済に影響を与えた。たとえば、彼らは1000台ほどの先進的な機械を破壊した。これは数十万リーブルに相当する政府と民間の長年の投資を無に帰した。
 さらに、民衆は革命における大規模な生活危機の中で、政府の経済政策に大きな影響を与えていく。フランスの国際的な競争力を犠牲にしてでも、自分たちの職や賃金、生活を守るために、議会に強く圧力をかけた。これが革命期の政府の経済政策に影響を与え続けることになる。

【より詳しく】革命とカトリック

 上述のように、議会は財政改善のために、教会財産を国有化して売却した。
 さらに、議会は聖職者の身分を大きく変更した。聖職者はそれまでは第一身分という特権身分であった。だが、1790年の聖職者民事基本法により、聖職者は国家から俸給を支払われる役人となった。さらに、彼らはこの法律に従うよう宣誓を求められた。
 だが、それらは教会に大変革をもたらすものだったので、その宣誓を拒否する聖職者が少なからず現れた。彼らは反革命の勢力を形成していった。
 議会はその他にも多面的な改革を進めていった。たとえば、教会の教区制度や司教を廃止するなどした。この教会改革はフランスのカトリック市民から両義的な反応を受けた。
 カトリック市民は革命による教会改革が表向きには自分たちの共同体の福祉にどのように作用するかという基準によって、議会の教会改革を評価することが多かった。
 一方で、この教会改革を歓迎する者がいた。財政面での利益を受けたものは、議会による改革を歓迎した。たとえば、伝統的に、村落などの共同体は自分たちの地域の教会に対して、十分の一税を支払うよう義務付けられていた。だが、国民議会の改革により、彼らは支払いの義務から開放された。他にも、旧教会財産の売却による利益が歓迎された。
 だが、多くのカトリック市民はその教会改革に反対した。アンシャン・レジームにおいて、カトリック教会の活動はただ単に宗教的だったわけではなかった。むしろ、多くの場合に社会的な面を含んでいた。
 たとえば、教会が村の伝統的な祭りや救貧活動、教育などを主導していた。それらが議会の教会改革で廃止された。その結果、共同体の半ば公的な交流や組織も失われることになった。

 さらに、この改革が強引な外部の介入を招き、地方の自治を損なわせた。革命の教会改革はこのような複合的な仕方で共同体の福祉に反するとして、反対を惹起した。ここから、反革命の火種がでてくる。

 立憲議会の活動

 憲法制定に伴い、国民議会が解散され、新たな選挙が行われた。新たな議員たちによる立憲議会が成立した。この議会では、王権支持のフイヤン派と、それに対立するジロンド派が主な派閥を形成した。両者は移住者(亡命者)や、聖職者民事基本法を拒む聖職者、そして植民地問題などをめぐって対立した。
 立憲議会は司法制度の改革や、県制改革のような行政制度の改革などを推し進めた。

 対外戦争の始まり

 マリー・アントワネットはヴァレンヌ逃亡事件の失敗の後も、祖国オーストリアの大公に支援を求め続けた。彼はハプスブルク家の当主であり、神聖ローマ帝国の皇帝でもあった。彼はアントワネットらの要請を受けて、フランス革命への干渉戦争を決意する。
 フランス国内では、立憲議会が戦争すべきかどうかで割れていた。ジロンド派は開戦を推進した。そのもとで、1792年4月、ついにルイ16世はオーストリアとの戦争を宣言した。
 だが、フランスは連戦連敗だった。財政問題が重くのしかかった。軍隊制度も整っていなかった。指揮官だったラファイエットは戦闘が絶望的だと訴えた。
 ルイ16世はこの頃には反革命的な姿勢を示すようになっており、ジロンド派の内閣を罷免した。

 ちなみに、フランス軍が当初連敗したのは、身分制解体なども大きな原因だった。革命はフランス軍を様々な仕方で危機的状況に至らせた。

 他方で、当時のオーストリアもまた不安定な状況にあり、断固として戦える状態でもなかった。この点について、詳しくは「皇帝フランツ2世と神聖ローマ帝国の終焉」の記事を参照。

8月10日事件

 1792年7月には、ジロンド派は国内が危機的だと宣言した。フランス国内では、この危機に対処するために、義勇軍がパリに集まり始めた。
 その頃、ジロンド派が王権への対立を強めていった。上述のように、ヴァレンヌ逃亡事件以来、王権への風当たりは強かった。ジロンド派は国王の行政権の廃止に向けて民衆を動員し始めた。国王はすでに立法権を失っていたが、行政権を握っていた。ジロンド派はこの行政権をも奪おうと試みた。
 8月10日、王権にたいする民衆の反対運動は反乱へとエスカレートした。無数のパリ市民が王宮のチュイルリー宮殿を襲ったのである。国王たちは一時的に非難したが、王権は停止されることになった。これが8月10日事件である。

 国民公会と共和制

 1792年9月、民衆に後押しされた議員たちは1791年憲法を廃止し、立憲議会を解散した。新たな憲法を制定すべく、国民公会という議会を招集した。この議会のもとで、フランスは正式に王制を廃止して共和制に至った。1791年憲法の成立から1年ほどのことであり、その時には予想していなかった事態となった。
 国民公会では、議会内の右翼にジロンド派が、左翼に山岳派がおり、中央に平原派がいた。伝統的な理解では、ブルジョワ的なジロンド派と、急進主義的な山岳派が勢力対立を繰り広げることになる。山岳派は全国規模の政治組織のジャコバン・クラブと密接な関係にあった。

1791年からの経済

 1791年から、中央政府は異なる経済的アプローチをとるようになった。長期的に経済を変革する新しい法的・行政的仕組みの構築を開始したのである。この仕組みの中心に機会均等の原則を据えた
 同年1月には、政府は特許制度を設立した。3月には、ギルドを廃止し、職業選択の制限を撤廃した。6月には、すべての労働者の団結が禁止された。9月には、誰でも望むものをほとんど何でも作ったり売ったりできるようになった。
 だが、中央政府に対する信頼が低下していたことにより、アッシニア通貨が急速に暴落した。1791年12月までに25%、1792年3月までに40%もその価値が下落した。インフレの高まりによって、国民の生活が一層苦しくなった。

ジロンド派の政権から追放へ

 この時期は当初、ジロンド派が政権を握っていた。山岳派と対立するようになった。特に、もはやただの市民となったルイ16世の処遇を巡って対立を深めた。革命裁判が行われた。1793年1月、山岳派の意見が通り、ルイ16世はギロチンで処刑された。同年中に、マリー・アントワネットも処刑された。

 激動の時代を生きたルイ16世とアントワネットについて、詳しくは次の記事を参照

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 危機の増大

 フランスの危機は深まり、混沌と不満が渦巻いた。国内では、上述のようにアッシニア通貨がインフレを起こし、庶民の生活を悪化させた。同時に、反革命の不満は高まっていた。
 対外戦争のために、議会が国民皆兵の徴兵制を導入した。これがきっかけで、ついにヴァンデ地方で反革命の反乱が生じた。さらに、ルイ16世の処刑が一因となって、従来のオーストリアやドイツだけでなく、イギリスがフランスへの干渉戦争を開始した。そのような多面的な危機の中で、都市部などでは食糧危機が生じた。
 民衆は事態に対応できないジロンド派に不満を高まらせた。他方、山岳派が民衆の支持を獲得していった。両者は対立し、批判の応酬を繰り広げた。だが、事態は膠着した。山岳派はなにか手を打たなければならないと考えた。
 ついに、1793年5月末、山岳派は民衆の後押しをえて、国民公会からジロンド派を追放するのに成功した。8万人ほどのパリ市民が国民公会を取り囲み、ジロンド派への処罰を要求したのである。ジロンド派は国民公会から追放され、投獄された。

 山岳派あるいはジャコバンの独裁

 かくして山岳派が政権を取った。まず、普通選挙制などの重要な特徴をもつ新しい憲法を制定した。この憲法は、労働できない人々に教育や雇用あるいは生存手段を提供する国家の義務を明記しており、社会政策を推進するものだった。
 だが、この憲法は反革命の危機が迫っているという理由で、実施を延期した。そのかわりに、山岳派は憲法に基づかない臨時的な革命政府を樹立した。
 山岳派はこの革命政府において、独裁を行った。特に、国民公会に設置された委員会の中でも、公安委員会が多くの権限を握り、主導的役割を担った。
 山岳派は農民や民衆の要求に対応した。領主制が実質的に残存していたので、その廃止を徹底した。さらに、ジロンド派が対応に失敗していた食糧危機の問題にたいして、より実効的な解決策を提供しようとした。

 すなわち、買い占めを禁止し、公立の貯蔵庫を設置した。だが凶作となったため、さらに最高価格令を出した。40品目ほどの生活必需品の価格の上限を定めたのである。このようにして、民衆の食糧危機に対応しようとした。
 これらの統制経済を要求し、ジャコバン派の独裁を支持していたのはサン・キュロットと呼ばれる下層民だと考えられている。キュロットは貴族やブルジョワが着用した半ズボンである。

 サン・キュロットはそれを着用しない職人や商店主などの下層民であった。サン・キュロットは政治的平等や直接民主政などを求め、民衆運動の主体になったと考えられてきた。

ジロンド派の反乱へ

 ジロンド派の代議士たちは追放されたまま黙っていたわけではなかった。多くがパリを脱出し、カーンなどの地方都市に拠点を移した。彼らはジャコバン派による弾圧に抵抗するために、中央委員会を結成した。
 ジロンド派はフランス全土に委員を派遣して支援を求めた。国民公会の主導権を取り戻すために、パリへの武装行進の準備を進めた。すなわち、反乱の準備を始めたのである。もっとも、彼らはフランスでの内戦の扇動者として批判された。
 この反乱では、ボルドーやマルセイユ、リヨンなどの地方都市がジロンド派に味方した。このような動向は、それまでの国民公会での派閥争いや、パリの群衆の手に負えない街頭政治に対する地方の不満の表れでもあった。
 この反乱がフランスの状況をさらに緊迫化させた。対外戦争のみならず、内部での反乱がさらに国民公会を苦しめることになる。

 ロベスピエールの恐怖政治

 したがって、山岳派の革命政府は危機的状況にあった。対外戦争ではなかなか反転攻勢に移れなかった。この危機的状況で革命を完遂するために、公安委員会のロベスピエールは恐怖政治を展開した。たとえば、死刑判決を下すための法的手続きを簡素化するなどして、敵対勢力の排除を容易にした。
 推計で、1793年から94年にかけて、だいたい17000人の男女がギロチンで処刑された。 裁判を待つ獄中での死者は約1万人だった。さらに、武装した反逆者にたいする即決の処刑も1万人ほどだった。
 1794年4月には、ロベスピエールはジャコバン派の中でも穏健的だったダントン派をも処刑するに至った。ロベスピエールの恐怖政治はフランス革命自体の恐怖として喧伝されるようになる。
 だが、状況は変わっていった。恐怖政治を可能にしていたフランスの危機的状況が去ったのである。革命政府は内乱を鎮圧し、対外戦争でも勝利できるようになっていった。その結果、ロベスピエールは反対勢力を抑え込めなくなる。7月末、ついにロベスピエールらは逮捕され、処刑された。テルミドールのクーデターである。

 恐怖政治について、より詳しくは次の記事を参照

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 ジャコバン独裁の時期の経済

 ジャコバン独裁や恐怖政治を可能にした危機の最たるものは経済的危機だった。政府はこれを乗り切るために、自由主義の経済政策を大幅に制限し、経済を大胆に統制しようと試みた。そのため、この時期の経済を詳しくみてみよう。
 まず、この経済的危機の内実である。イギリスなどは干渉戦争において、効果的な海上封鎖を行い、フランスの植民地を攻撃した。フランスの農民や貿易会社などは重要な原材料や海外市場とのつながりを失った。
 その結果は厳しいものだった。ハイチ革命の影響も出てきたため、マルセイユやボルドー、ナントなどの地方都市の経済は急速に悪化した。これが一因となって、上述のようにこれらの地方都市がジロンド派の反乱に味方したのである。
 さらに、この海外封鎖などは食糧不足を悪化させた。軍隊への食糧供給だけでなく、パリなどの都市で食糧問題が抜き差しならない問題となった。
 そのため、中央政府は徹底的な経済介入を決めた。軍と都市を優先して食糧を配給した。その方策として、 1793年5月、上述の最高価格令を下した。穀物は法定価格で、定められた市場でのみ販売されることになった。買い占めは死刑によって禁止された。食糧を徴発し、公的穀物貯蔵庫を設置した。
 1794年春から、公安委員会は全国的に価格を平準化することに着手し、次第に成功を収めた。
 さらに、政府は賃金にも上限を設定した。1790年の水準から50%以内の範囲でしか賃金を設定できないと定められた。 
 ところが、これらの政府の価格統制はしばしば実効性が乏しかった。まず、フランスの大部分において、食料は法定の最高価格でも入手できなかった。闇市場が活況を呈した。公安委員会はしばしば最高価格を超えた料金の追加を認めざるをえなくなった。このような価格の再調整は、最高価格の計算において、輸送費が大幅に過小評価されたことなどが原因だった。
 賃金統制は物価統制よりも困難だった。人件費が法定の水準をはるかに超えて上昇していたためである。
 これらの統制以外に、中央政府はより積極的な仕方で経済に働きかけた。
 たとえば、中央政府はパリで軍事産業の発展に大きく寄与した。熟練労働者や原材料などを全国から集め、工場をつくり、軍需品を大量生産した。銃剣、剣、ブーツ、軍服、帽子、火薬、弾薬、銃身、馬具、鞍などである。
 銃火器としては、15万5,000丁のマスケット銃とピストル、1,500門の青銅製大砲が製造された。中央政府は何万人もの労働者をあつめ、法定賃金のもとで、ノルマを与えて働かせた。
 さらに、中央政府は科学者を動員した。軍需品の開発や改良などに役立たせた。たとえば、気球が大砲の射撃を指示するのに利用された。 1794年には、公安委員会は国立芸術科学研究所を設立した。

【より詳しく】サン・キュロットの実態とは

 「サン・キュロット」にかんする見方は修正を受け、複雑化してきている。かつては、サン・キュロットといえば、下層階級に深く根ざし、暴動という大衆的暴力を爆発させようと熱望する「民衆運動」のイメージが主流的だった。だが、このようなイメージが実態にあわないと指摘されるようになっている。
 サン・キュロットは次のような下層民だと考えられてきた。サン・キュロットは本質的に受動的な労働者階級である。彼らは中産階級の急進派の思想や、ギルドの親方たちの実践的指導によってのみ、サン・キュロットとして覚醒することができた、と。
 このような受動的な群衆としてのサン・キュロットのイメージが問題視されている。たとえば、彼らがむしろ自発的に政治に身を投じようとする能動的側面が指摘されている。
 あるいは、そもそもサン・キュロットというものが地に足の着いた現実というより、政治的なレトリックの産物だともいわれる。すなわち、ジャコバン派などが自身の様々な政治的決定を正当化するために、民衆の飢餓を根拠として提示した。

 その際に、サン・キュロットという存在をこしらえた。ジャコバン派はサン・キュロットのニーズに応えるための決定を下し、行動を起こしたのだ、と。よって、この見方によれば、サン・キュロットはジャコバン派などが自己弁明のために拵えた概念であり、実体を欠く。
 あるいは、こういう指摘もある。下層民の人々は、変化する政治状況に合わせて、当時認識されていた「サン・キュロットらしさ」に自らを適合させる行動をあえてとることもあった、と。よって、サン・キュロットというものが政治エリートの産物だったとしても、群衆の中には、その産物に自らを合わせようとする動きがあったのである。 

 革命での植民地や奴隷制の問題

 ジャコバン派は恐怖政治のもとで統制経済を手動する中で、1794年2月に奴隷制を廃止した。奴隷制はフランス植民地での砂糖栽培で利用されていた。砂糖貿易はフランスの重要な財源となっていた。そのため、奴隷制は重要な経済的な問題であった。
 同時に、フランス人権宣言はすべてのフランス人の権利を論じていたので、奴隷制は政治的な問題でもあった。
 さらに、この奴隷制を廃止すべく、まさにそのフランス植民地では、1792年から反乱が生じた。ハイチ革命である。その結果、フランス本国への砂糖流入が減った。植民地での革命はパリなどでの食糧危機を悪化させたのである。
 このように、奴隷制や植民地の問題はフランス革命にとって重要な問題だった。これについて、より詳しくは次の記事を参照。

 テルミドールのクーデターと「反動」?

 テルミドールのクーデター以後から総裁政府の樹立までは、ながらく、テルミドールの反動の時期として知られてきた。1794年7月ー1795年10月である。伝統的には、この時期はテルミドール派がジャコバン派の急進主義を逆転させ、時計の針を戻したと考えられてきた。
 たとえば、テルミドール派はジャコバン派の社会政策を廃止したり、市民社会の自治を回復させたりした、と。テルミドール派はそれ以上のことをしなかった。よって、テルミドールの「反動」と呼ばれてきた。
 だが、この伝統的理解は批判に晒されている。テルミドール派は革命の「時計の針を戻す」以上のことをしていた。というよりむしろ、革命の針を進め続けていた。さらに、別の仕方でも、ロベスピエールとは異なる政策を展開した。
 では、テルミドール派はこの時期に何をしたのか。

体制の変革

 テルミドール派はロベスピエール派を粛清することで、国民公会の勢力図を大きく変えた。さらに、ロベスピエールらの急進主義的な政策や制度を解体した。彼らの社会政策を放棄した。ジャコバン・クラブを閉鎖した。これらにおいて、テルミドール派はロベスピエールらと異なる道を進んだ。
 さらに、テルミドール派は次のような理由で、ロベスピエールとの断絶を強調した。テルミドールのクーデター後、民衆はジャコバン派の恐怖政治にうんざりしていることが判明した。クーデター実行者たちも恐怖政治の実行者の一部だった。だが、彼らはこの恐怖政治をロベスピエールのせいだとし、彼だけに責任をなすりつけようとした。
 彼らはロベスピエールという元凶を処罰することで、恐怖政治を終わらせ、新しい体制に移行するのに成功したと喧伝した。そこから、ロベスピエールの恐怖政治とテルミドールの時期には断絶があるという考えもうまれてきた。

テルミドール派による革命の推進

 テルミドール派は革命の精神を継承していた。かつてのフランス王権の王朝主義には敵対し、共和制を支持し続けた。国民公会という議会の権力の強化を推進し続けた。
 彼らは共和制の枠内で改革を続けながら、ジャコバン派の専制主義を終わらせようとした。その延長線上に、次の総裁政府を成立させる1795年の共和主義的な憲法を成立させた。

報復と和解の試み

  他方で、テルミドールの時期に、ジャコバンの恐怖政治は次の暴力と連鎖した。いわゆる「白い恐怖」が始まった。1794年末から、かつてのジャコバン派への報復の暴力が展開されたのである。
 恐怖政治は革命にこのような負の遺産をもたらした。国民間の深刻な分裂や対立である。政府は国民間の融和や和解を実現しなければならなかった。この深い傷を癒やすには数年間かかることになる。

テルミドール派の経済

 ジャコバン派の恐怖政治が物価や賃金の統制を、一定程度ではあれ、可能にしていた。さらに、ジャコバン派は飢饉を防ぐことができた。軍事産業などを振興した。 国家の要請で設立された多くの企業は、目覚しい生産性の向上を達成した。実のところ、ジャコバン派によって、フランス経済は安定していたのである。
 上述のように、テルミドール派はこの恐怖政治の制度を解体した。その結果、経済の統制が不可能になった。同時に、統制経済から自由主義経済へのシフトを部分的に進めた。このような経済政策がフランス経済を悲惨なものにしていく。
 たとえば、テルミドール派は賃金の統制を緩めた。ジャコバン派のもとで建設された数々の工場を廃止した。
 政府の庇護に頼っていた膨大な数の企業は大部分が倒産に追い込まれた。原材料の費用や賃金の上昇で、原材料や労働者の確保が難しくなったためである。熟練工がもはや公務員として徴用されなくなったためでもある。そのような中で、アシニア通過が市場原理のもとで暴落した。よって、企業は資金の融通が困難になった。

 総裁政府の成立へ

 1795年のフランスは疲弊していた。 悪天候による穀物不足と通貨の暴落で国民生活は厳しかった。それに伴い、犯罪と自殺が急増した。 対外戦争の負担は重くのしかかった。内戦もまた活発になっていった。

 アンシャン・レジームでのエリートたちが革命の共和制政府に対立し、かつての権力を取り戻そうとした。このような反動に加えて、共和主義者同士でも対立が激しくなった。上述の恐怖政治の負の遺産である。
 政府は共和主義を守ろうとした。同時に、この大いに動揺した秩序を回復し、治安を確保する必要に迫られた。共和主義と治安がこの時期の二つの大きな目標となる。
 そのために、1795年、議会は新たな憲法を制定した。これは個人の自由、法の平等、代議制民主主義といった革命初期の重要な原則を定着させようとした。この憲法に基づき、二院制議会と5人の総裁による総裁政府が誕生した。総裁政府の時期の始まりである。

 共和主義と治安

 だが、総裁政府はこれらの共和主義と治安の確保で悪戦苦闘した。これら二つの目的は当時のフランスではしばしば相反するものとなった。共和主義の敵としては、立憲王政派と、絶対王政派がいた。

 立憲王政派がこの時期のフランスでは中道だと考えられていた。絶対王政派は亡命中だった。これらの王党派や、極左の勢力が総裁政府の政治を左右から攻撃し、非常に不安定なものにしていった。
 総裁政府と議会は恐怖政治の負の遺産に取り組んだ。恐怖政治への補償や和解などの試みである。犠牲者の家族への財産の返還などによって、そのような試みを進めようとした。だが、報復や暴動などは続いた。
 総裁政府は恐怖政治の実行者を特定していた。だが、これらの共和主義者を罰さずに、恩赦を与えることにした。この時期に王党派の脅威が明らかになったため、かつての共和主義者への刑罰をとりやめたのである。総裁政府は負の遺産の解消よりも王党派の脅威に立ち向かうことを優先した。
 だが、この恩赦にかんする総裁政府の決定は法律に基づくものではなかった。そのため、これは立憲主義的な共和主義という総裁政府の立場と憲法に反するものであった。よって、この点で総裁政府は信頼性を損なった。
 他方で、政府は共和主義を定着させようとした。その一環として、宗教の公的実践を制限し、移住者家族を政治的に排除した。これらは革命初期の共和主義の特徴だった。
 しかし、これらの政策が大きな反発をうみ、治安の確保にとって逆風となった。共和主義と治安という二つの目標の対立である。
 1795年10月の選挙によって、共和主義に賛同しない代議士が多く当選した。同じような立場の人々が役人になった。彼らは治安の悪化を事実上容認した。たとえば、恐怖政治の犠牲者たちが報復したとしても、彼らはこれらの犯人を処罰するのに消極的だったのである。
 総裁政府は彼らの行政や司法での怠慢や職務放棄をコントロールできなかった。その分、共和主義の体制や治安が不安定となった。
 この時期には、盗賊の犯罪件数が増えていた。彼らは散発的なものもあれば、組織的なものもあった。さらに、王党派の武装集団がこれと重なった。彼らは共和主義政府から土地を購入した富裕な農民などを襲ったのである。

 監獄が脆弱だったので、逮捕された犯人は陪審員や裁判官にしばしば報復した。総裁政府はこれらの地方の治安を維持できなかった。
 これらの犯罪や治安の悪化は新聞などで毎日のように取り上げられた。王党派などの新聞は政府への攻撃のために、事件を捏造することもあった。治安の回復を望む声が高まっていった。

共和主義より治安を優先する

 総裁政府は国民の信頼を回復するためにも、治安対策に本腰をいれた。まず、1797年に、国家憲兵隊の大改革に着手した。その質と量を改善した。国家憲兵隊はプロフェッショナルな近代的な警察に変わっていった。それでも、盗賊や反乱の鎮圧は警察にとって命がけの戦いであり続けた。
 さらに、総裁政府は犯罪と反乱への対策として、刑罰を厳しくした。たとえば、路上強盗と住居侵入は死刑に処されることになった。財産の犯罪でも死刑に処されることになった。これは革命以前では否定されていたことである。
 このように治安維持のために自由を犠牲にする政策は議会で議論をよんだ。だが、制度化されていった。

 フルクティドールのクーデター:強権政治へ

 総裁政府はさらにそのような措置を推進していった。1797年の選挙で、王党派が勝利し、議会の過半数の議席をえた。共和主義の総裁たちは体制が崩されてしまうと恐れた。そこで、フランス軍の協力を得て、同年9月にフルクティドールのクーデターを起こした。
 その結果、総裁政府は1797年の選挙の大部分を無効と宣言した。いわば、力づくで、この選挙がなかったことにしたのである。
 さらに、総裁政府は王党派の代議士たちを追放した。王党派の数百人の裁判官や県の行政官を排除した。 反革命的な移住者や神父の帰還を根拠に、彼らに対する強権的な措置をとった。 フランスに無許可で戻って捕らえられた移住者すべてに死刑を命じた。

 このように、クーデターの指導者たちは、民衆のカトリックと王党派を政権に対する深刻な脅威とみなした。秩序回復を優先して、それまでの立憲主義と法の支配への支持を放棄し、ますます権威主義的な手段をとるようになった。

 総裁政府が取った手段をより具体的にみてみよう。クーデター後、政府は扇動者などとみなされた人物を国外追放に処す権限をえた。この措置のためには、裁判も審理も必要なかった。この政府の単純な行政命令によって、1400人ほどが国外追放された。
 さらに、総裁政府は42の新聞を廃刊するなどして、ジャーナリズムを抑圧した。
 1798年の選挙は、再び総裁政府にとって好ましくない結果となった。政府はこの選挙結果をあからさまに無視した。これも一種のクーデターとみなされている。
 総裁政府が特に利用した手段が正規軍だった。自身への抵抗勢力や不満分子を抑圧し排除するために、軍隊を利用した。
 その際の特徴的な方法に、「包囲状態」の宣言がある。これはいわゆる戒厳令ではない。「包囲状態」はもともと、ヴァンデなどの反乱の際に、反乱地域にたいして用いられた。
 特定の地域が「包囲状態」と宣言されると、その地域の陸軍司令官は、文民当局の要請なしに、逮捕を命じることができるようになった。監獄を管理したり、軍隊を使役したりすることも可能になった。
 すなわち、軍人がシビリアン・コントロールなしに軍隊を動かし、その地域の裁判官などの役割も行えるようになったのである。このような措置は当初、戦時の例外的な手段として案出された。
 だが、フルクティドールのクーデターにより、総裁政府は望むままに「包囲状態」を宣言できる権限をえた。政府はこれを国内弾圧の日常的な手段に転化したのである。
 その結果、たとえば、1799年までに、220以上の市町村において、地方自治体から正規軍に警察権が移譲された。軍隊は都市や主要道路の監視だけでなく、移動の管理や、疑わしいとされた地域の徹底的な捜索なども行った。

 同時に、総裁政府は司法への影響力を強めた。裁判官などの人事に影響力を行使し、敵対的な人々をその役職から追い出した。その結果、犯罪者として起訴された人々が有罪判決を受ける可能性は高まった。長期間の重労働の罰の数は50%近く増加し、死刑判決の数は2倍以上に増えた。
 総裁政府はこのような司法制度をも利用して、共和制の維持を図った。共和制は多くの点で実質的に損なわれながら、強権的な仕方で保持されたのである。

 ブリュメールのクーデターから革命の終焉へ

 この頃には、ナポレオン・ボナパルトが革命の対外戦争で軍人として頭角を現し、国民的な人気を得るようになっていった。1799年11月、シェイエスはナポレオンと結託し、総裁政府を打倒した。ブリュメールのクーデターである。
 ナポレオンらはそれまでの総裁政府を廃して、統領政府を樹立した。とはいえ、総裁政府が利用していた弾圧手段を多用することになったので、その体制との連続性もみられたが。
 ブリュメールのクーデターとともに、フランス革命は終焉したと一般的に考えられている。

 総裁政府の経済

 アシニア通過は1795年5月末までに456億リーブル分の紙幣が印刷された。それが金融システムと経済を疲弊させた。アシニアは暴落の末に、ついに1796年2月に廃止された。フランスは1797年に破産を宣言した。20億リーブル未満の国債を債務不履行とした。アンシャン・レジームと革命によって蓄積された債務負担をこのようにして無理やり解消した。
 この頃、恐怖政治の時期の統制経済への反感はフランスの政治・経済エリートに根付いていった。物価や賃金の統制のみならず、富や土地の再分配もまた嫌悪された。
 政府が経済に関与しないという方針は、たとえば、交通網の軽視にみられた。主要道路や地方の道路も蔑ろにされた。輸送のための馬と牛が軍事で徴用されたのも、輸送問題を悪化させた。

 この輸送問題は、フランスの商業、工業、農業の発展にとって、大きな足かせとなった。この問題は19世紀なかばに全国的な鉄道網が整備されるまで残り続ける。

 征服と経済

 この時期に、フランスは反転攻勢を本格的に進め、ナポレオンが周辺地域の制圧に成功していった。たとえば、1795年にはベルギーとドイツ語圏のライン川左岸、オランダを支配下においた。1798年には、 スイス連邦をヘルヴェティア共和国にした。
 総裁政府はこれらの支配地から莫大な利益をえた。これらの地域は重税を強いられた。たとえば、1798年から99年だけでも、占領地からの税金は1億5800万リーブルに達した。 反抗的な都市はより思い税金を強いられた。たとえば、ローマは7000万リーヴルを支払わなければならなかった。
 さらに、フランスはこれらの地域から貴重な原材料を入手した。たとえば、ベルギーの石炭、レーヌの鉄、ピエモンテの絹などである。かれらの科学知識なども吸収した。

和解や融和へ

 上述のように、恐怖政治や内乱での深い対立がフランスの国民内部で生じていた。テルミドールのクーデター以降、政府は国民間の和解や融和を推し進めようとした。
 フランスのほとんどの地域では、集団的な暴力の加害者と被害者がその暴力の後も隣り合わせで暮らし続けなけらばならなかった。そのため、彼らは報復や処罰、共存や和解のジレンマを生きた。

 たとえば、不正な暴力の犯人を裁きたいという要求や、犠牲者の記念碑を新設するという行為は、復讐心を忘れ和解して治安を回復するというニーズとしばしば対立した。
 このような複雑なジレンマはきれいに解消されなかった。だが、人々は和解のために、様々な工夫をした。たとえば、祭りや演劇が利用された。あるいは、新興宗教が市民にたいして、相互に赦しあい、過去のすべての過ちを忘れるよう説いた。
 様々な工夫と状況の結果として、フランス人は相互の報復や分裂の危機を乗り越えていく。

 ※フランス革命に様々な影響を与えた演劇については、次の記事を参照

 フランス革命の意義や影響

 フランス革命の意義や遺産は実に広範で深甚なものである。そのため、フランス革命は学校での歴史の授業だけでなく、書物や演劇などの文学、テレビや映画などでも繰り返し扱われてきた。意義や遺産について、詳しくは次の記事を参照。

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おすすめ参考文献

Cecilia Feilla, The sentimental theater of the French Revolution, Routledge, 2016

David Andress(ed.), The Oxford handbook of the French Revolution, Oxford University Press, 2019

Darius von Güttner, French Revolution : the basics, Routledge, 2022

山﨑耕一『フランス革命 : 「共和国」の誕生』刀水書房, 2018

高橋暁生編『 「フランス革命」を生きる』刀水書房, 2019

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