フランツ・リスト

フランツ・リストは19世紀ハンガリーのピアニストや作曲家(1811ー1886)。ドイツやオーストリアで活躍した。ロマン派の代表的人物の一人として知られる。代表作には「ハンガリー狂詩曲」などがある。また、音楽批評でも活躍し、他の作曲家たちの活動を支援した。

リストの出自と初期

 リストはハンガリーのショプロン近郊で宮廷の官吏の家庭に生まれた。両親はドイツ出身だった。リストは幼い頃から父にピアノを習い、すぐに楽才を開花させた。8歳にして公開演奏会を開き、好評を博したほどだった。

ピアニストや作曲家などとしての成功

 9歳で行った演奏会も成功した。これにより、1821年、リストは貴族たちの資金援助を獲得し、音楽の都ウィーンに移った。著名な音楽家サリエリらに師事した。ウィーンでもすぐに楽才を認められ、ベートーヴェンなどにも感銘を与えた。

 1822年には、リスト一家はパリに移り、音楽を学んだ。パリやロンドンでも演奏会を催し、成功した。作曲活動でも成功し、名声を高めていった。この頃には、サロンに出入りするようになり、著名な作家や作曲家などと広く交流をもつようになった。たとえば、ハイネユーゴーショパンなどである。

 リストはサロン経由でダグー伯爵夫人のマリーと知り合い、恋に落ちた。リストはマリーと駆け落ちし、1835年にはスイスのジュネーヴに移った。そこでは、ジュネーブ音楽院のピアノ講師として生計を立てた。同時に、作曲活動にも励んだ。なお、マリーとの娘はのちに作曲家ワーグナーの妻となった。

 1839年、ハンガリーのブダペストに移った。母国では熱烈に歓迎された。ヨーロッパ各地で引く手あまたであり、演奏旅行を行った。その際に、キエフで侯爵夫人カロリーネと恋に落ちた。マリーとの離婚を進めるかたわら、カロリーネとワイマールで同棲し始めた。

 ワイマールでは、リストは作曲や指揮に打ち込んだ。この時期は非常にみのり豊かであり、『超絶技巧練習曲集』などの様々な代表曲を生み出した。また、世間的な評価がまだ高くなかったシューベルトやワーグナーなどの楽曲を指揮し、彼らに脚光が当たるように試みた。

 カロリーネとの恋は実らなかった。彼女は失意のうちに、宗教生活に入った。リストも同様に宗教生活に傾き、聖職者にもなった。同時に、オラトリオ『キリスト』などの宗教音楽の制作に打ち込んだ。1886年、病没した。

他の音楽家への支援

 リストは、当時まだ世間の評価がさほど高くない作曲家たちの評価を高めるのに貢献した。たとえば、バッハやベートーヴェン、シューベルトやワーグナーやシューマンらの作品をピアノ曲に編曲し、自らピアニストとして演奏会で演奏した。また、彼らの楽譜が世間に広まるよう手配した。さらに、ドビュッシーらの若い才能を支え、多くの生徒に音楽を教えた。また、音楽評論にも打ち込み、このような方法でも彼らの評価を高めるのに貢献した。

リストの肖像画

フランツ・リスト 利用条件はウェブサイトにて

リストの代表的な楽曲・作品

『パガニーニによる超絶技巧練習曲集』(1838)
『ハンガリー狂詩曲』(1846ー1885)
『死の舞踏』(1849)
『タッソー』(1849)
『ピアノ協奏曲第一番変ホ長調』(1849)
『超絶技巧練習曲集』(1851)
『ファウスト交響曲』(1854ー1857)
『ダンテ交響曲』(1855ー1856)
『キリスト』(1862ー1867)

おすすめ参考文献

フランツ・リスト『フレデリック・ショパン : その情熱と悲哀』八隅裕樹訳, 彩流社, 2021

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