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フランシスコ・ピサロ:インカ帝国の征服者

 フランシスコ・ピサロは16世紀スペインの探検家(1475−1541)。1531−33年、現在のペルーにあったインカ帝国を征服したことで知られる。アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスとともに、征服者の代表的人物として知られる。ピサロは征服した地にリマの都市を建設した。だが、最後は・・・・。

 ピサロ(Francisco Pizarro)の生涯

 ピサロはスペインのエストレマドゥーラ地方で生まれた。私生児であり、軍人の道を進んだ。20代前半には、イタリア戦争に参加して、シャルル8世のフランス軍と戦った。 

 アメリカでの探検と遠征へ

 この頃、周知のように、1492年にコロンブスがアメリカを「発見」した。彼はスペイン国王の後ろ盾で探検航海を行ったので、スペインが新世界の探検や征服を開始した。当初は現在のカリブ諸島付近が対象地域だった。

 1502年、ピサロはオバンド総督とともにアメリカを目指し、エスパニョーラ島に移った。この時期から、スペイン人は次第にアメリカの大陸へと進出していった。
 ピサロもこの流れにのって、パナマの大西洋岸地域に移動した。その後、コロンビアへの遠征などに参加した。ピサロは最初期の遠征隊の兵卒の一人として活動し、経験を積んでいった。徐々に、新世界ではベテラン兵士として認められるようになった。

バルボアとともに:太平洋の発見

 1513年には、ピサロはバルボアの探検隊に同行した。この時期は中南米の大陸の探検と征服が盛んに行われた。バルボア一行は大陸の西岸にたどり着き、ヨーロッパ人で最初に太平洋を発見した。ピサロはこの発見の遠征隊の一人だったのである。

新世界での出世

 ピサロは次第に出世していった。たとえば、パナマの新設都市の執政者となり、町の統治にも関与した。1521年には、150人ほどの先住民インディオのエンコメンデロになった。エンコメンデロとインディオは事実上の主人と奴隷の関係にあった。この時期、エンコメンデロの地位や権利は征服活動への報酬として与えられた。

 黄金郷を探して

 同時に、ピサロは南米の探検と征服を続けた。ついに、黄金郷の確かな情報をつかんだ。結果的にいえば、これはインカ帝国である。コルテスがメキシコのアステカ帝国を攻略して間もない頃のことだった。
 1524年、ピサロはアルマグロらと手を組み、この黄金郷の探検に出発した。だが、先住民の激しい攻撃にあい、これは失敗した。ピサロはこの探検・征服事業から外されそうになった。だが、アルマグロらが助けに入ることで、もう一度、征服事業に挑んだ。

エピソード:苦境に立つピサロ

 この二度目の探検征服事業もなかなかうまくいかなかった。遠征隊は内部対立を始めた。多くの兵士はパナマに戻った。ピサロはこれがラストチャンスだと思っていたので、なんの収穫もなしに帰るつもりはなかった。だが、パナマからは、統治者が使者をピサロに送り、戻って来るよう促した。
 伝承によると、このとき、ピサロは濡れた砂浜に短剣で線を引いた。ピサロと同行を続けたい者は、その線を越えよ。この呼びかけに応えたのは、13人の兵士だけだった。
 ピサロはこの少人数で探検を続けた。ついに、インカ帝国の一端の豊かな村にたどり着いた。そこで、ピサロは望んでいた金銀財宝や優れた織物製品の一部を目にした。ピサロは黄金郷の存在を確信した。とはいえ、部隊が少なすぎるので、いちどパナマに戻った。

 インカ帝国征服の準備

 1529年、ピサロは一度スペインに戻った。国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)と契約を結ぶことで、征服の手柄と権利を確実なものにするためである。
 ピサロはアルマグロなどを共同の事業者として、正式に契約を結ぶことができた。そのタイミングで、ピサロは叙爵された。まだ征服が完了していない時点だったが、ペルーの総督にも任命された。ちなみに、上述の13人の兵士もまた叙爵された。
 ピサロは故郷に立ち寄り、親族にこの大事業を報告した。親族や近隣住民もこれに参加することになった。パナマでアルマグロと合流した。だが、国王との契約内容がピサロをあまりに優遇しているとして、両者は対立した。亀裂が残ったまま、両者は征服の準備を始めた。パナマで兵士や馬などを集めた。

 征服の成功

 1531年、ピサロはインカ帝国の征服を開始した。200人に満たない兵士と40頭未満の馬を連れて、パナマを出発した。移動に時間がかかった。1532年、ようやくインカ帝国にたどり着いた。
 この頃、インカ帝国では内乱が起こっていた。アタワルパがこの争いで勝利し、皇帝としての地位をかためたところだった。11月、ピサロはアタワルパと会談することになった。このタイミングで、計略を仕掛けた。
 ピサロの使者はアタワルパにたいし、スペイン国王に服従し、インカの宗教を棄ててキリスト教を受け入れるよう求めた。アタワルパはこれらを拒否した。
 そこで、ピサロらは突如として攻撃を開始し、アタワルパを捕まえるのに成功した。この頃、インカ帝国が内戦によって疲弊していたことが、この成功につながった。
 さらに、インカ帝国の内乱において、アタワルパの敵対者だったインディオを、ピサロは大いに利用した。これも勝利の一因だった。かくして、インカの征服事業は三度目で成功した。

アタワルパの処刑へ

 その後、ピサロは釈放金として大量の金銀をアタワルパに献上させたが、釈放しなかった。かくして、ピサロは莫大な金銀を獲得した。1533年、ピサロはアタワルパを処刑した。スペイン人への反乱が企てられているという噂がその一因だった。ただし、ピサロ自身が積極的に処刑を望んだのか、ほかのスペイン人が処刑を推し進めたのかで、議論が割れている。
 ピサロはアタワルパという先住民の皇帝がいなくなることで、先住民が反乱を起こすのを危惧したといわれる。実際、アタワルパの処刑後、その弟を次の統治者に選んだ。彼はピサロの操り人形となった。

 クスコの征服と首都リマの建設

 その後、ピサロはインカの首都クスコに移動し、これを占領した。1535年、その地に、ペルー地域の新たな首都リマを建設した。インカ貴族の娘との間に子供をもうけた。ピサロは初代リマ総督となった。
 だが、1536年、インカの先住民がクスコで大反乱を起こした。ピサロはこれをどうにか鎮圧するのに成功した。だが、残党は16世紀後半までゲリラ作戦などで抵抗を続けることになる。

 晩年と最期

 勝利後、ピサロとアルマグロはペルーの統治をめぐって対立するようになった。1538年、両者が武力衝突して内乱状態となった。ピサロがアルマグロを捕まえて処刑した。
 1539年、ピサロは侯爵に昇格された。だが、1541年、ピサロはアルマグロの残党によって殺害された。その後も内紛はしばらく続いた。

 ちなみに、当時の南米はブラジル以外の地域がペルーと呼ばれた。次第にそれ以外の地域もそれぞれの地域名をつけられ分化していくことになる。

 ピサロが建設したペルー植民地の首都リマ

 上述のように、リマはインカ帝国の首都クスコにピサロが新設したスペインの植民都市だ。リマは現在、旧市街と新市街で構成されている。もちろん、ピサロに関わる史跡などは旧市街に位置している。

 大航海時代のヨーロッパ人はヨーロッパの街並みを植民地に再現しようとすることが多かった。中世やルネサンスのヨーロッパの都市は、市庁舎と教会、そしてそれらに囲まれた広場が都市の中心地だった。

 リマの場合、中心的な広場はアルマス広場である。それを囲むようにサント・ドミンゴ教会と大統領府が建てられている。少し離れた場所にある大聖堂もまた、ピサロの時代に建造された由緒正しいものだ。 そのほかにも、インカ時代の先住民の品々を展示している黄金博物館などもある。500年ほど前の時代にタイムスリップするにはよい都市である。

 ピサロとコルテスの違い

 上述のように、コルテスはアステカ帝国を征服し、その後にピサロがインカ帝国を征服した。これら二つの帝国が新世界を代表する帝国であった。そのため、コルテスとピサロは代表的な征服者(コンキスタドール)として認知されてきた。とはいえ、彼らの性格は大いに異なっていた。両者の比較については、「エルナン・コルテス」の記事を参照。

 ピサロと縁のある人物

カルロス1世:ピサロが仕えたスペイン王。同時に、神聖ローマ皇帝としてはカール5世でもあった。ピサロが南米でスペイン領土を拡張していた頃、カールはドイツであの世界史的出来事に直面していた。

アタワルパ:ピサロに処刑されたインカ皇帝。インカ征服を先住民の立場でみるとどうなるか。

ピサロの肖像画

フランシスコ・ピサロ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

増田義郎『インカ帝国探検記 : ある文化の滅亡の歴史』中央公論新社, 2017

R. Alan Covey, Inca apocalypse : the Spanish conquest and the transformation of the Andean world, Oxford University Press, 2020

Kenneth J. Andrien(ed.), Transatlantic encounters : Europeans and Andeans in the sixteenth century, University of California Press, 1991

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