藤原彰子:藤原家の天下を可能にした女

 藤原彰子は11世紀の中宮で皇太后(988―1074)。父は藤原道長。一条天皇の中宮の時期には、才色兼備で知られ、紫式部や和泉式部らの優れた女房を従えた。藤原道長の実権掌握に必要不可欠な役割を果たした。よって、藤原彰子がいなければ、藤原氏は全盛期を迎えられず、歴史は大きく変わっていたかもしれない。同時に、彰子自身も主だった政治的主体の一人となった。

藤原彰子の生涯:出自と家系

 藤原彰子は京都で貴族の家庭に生まれた。父は藤原道長である。母は左大臣の源雅信(みなもとのまさのぶ)の女の倫子(りんし)である。倫子の曽祖父は宇多天皇であり、高貴な血筋だった。彰子は長女として生まれた。両親が20代前半の頃に生まれた。道長はその若さですでに権中納言という高い身分になっていた。

 天皇の中宮へ:定子とともに

 999年、彰子は12歳で成人して従三位の地位を与えられた。それまで何の役職ももたない女性がいきなり従三位の地位を与えられるのは前例がなかった。まもなく、正式に一条(いちじょう)天皇の後宮に入った。
 1000年、彰子は天皇の中宮となった。すでに天皇の中宮となっていた定子(ていし)は皇后となった。その結果、一天皇二后制となった。だが、定子はまもなく没してしまう。

 彰子の魅力的な女房集団の形成

 彰子の女房たちが優れた人物が揃っていたことは有名ある。紫式部や和泉式部、伊勢大輔や赤染衛門などである。とはいえ、彼女たちを雇ったのは彰子自身ではなく、まずは道長ら両親であった。幼い頃の彰子の女房集団は両親の女房集団と事実上同じであった。彰子が結婚などの人生の段階を経るうちに、道長らによって彰子独自の女房集団が構築されていった。
 道長は女房を選択するの基準の一つして、文学的才能を重視した。道長自身の女房にも優れた和歌を制作する能力を求めていた。さらに、道長は当時の物語の流行に敏感であった。様々な物語を積極的に収集していた。紫式部の『源氏物語』の一部もそのようにして道長に献上された可能性がある。さらに、赤染衛門らの女房たちに物語を共同で制作させてもいた。後述のように、女房たちは彰子という女主人のサロンで歌の制作や発表を行うことを主な役目の一つとしたので、道長はこの文学的才能を女房選びで重視した。母の倫子も彰子の女房集団の形成と維持を支えた。

彰子のサロン活動

 この時代、後宮では女房集団が主導する文化活動が盛んだった。多くの場合、女主人はそれを主導するよりも様々な仕方で支えた。彰子も同様であった。彰子のサロンの活動をみてみよう。
 当時のサロンの活動としては、歌合の開催や物語の制作、詠歌などが挙げられる。特に、和歌はそれぞれのサロンの文化レベルの指標であった。そのため、上述のように道長はその才能を女房選びの基準にもしていた。彰子のサロンでも、女房たちは歌を制作した。歌合以外にも、貴人が彰子のもとを訪れた際に、彼らとのやり取りで歌を詠んだ。これは当時の社交の一部をなしていた。ほかにも、法事の機会での特殊な歌合や、他の貴人が主催する歌合への参加もなされた。

 紫式部との関係

 ここで、女房たちのなかでも一般的に関心の強い紫式部と彰子の関係をみてみよう。
 紫式部が彰子のもとに女房として仕えるようになったのは1005年からである。そのきっかけは、『源氏物語』だった。紫式部はすでに結婚と出産を経験し、夫を亡くしていた。その後に『源氏物語』を執筆した。これが宮中でも読まれるようになり、好評をえた。そこで、彰子の女房として雇われることになった。
 藤原彰子の女房たちのなかで、紫式部の地位は中程度だった。当時の女房の身分は上臈と中臈と下臈から構成された。紫式部は中臈女房だった。というのも、受領階層の出身だったからである。具体的な公職にはついていない中臈女房だった。特別な機会に臨時で出仕するタイプではなく、局を与えられて常駐するタイプだった。
 紫式部は女房として具体的に彰子に何をしていたのか。他の女房と共通する一般的な職務としては、御膳などの衣食住や、公家などとの取り次ぎの役目、娯楽などの仕事があった。
 ほかに紫式部に特徴的なものは、少なくとも二つ挙げられる。第一に、彰子に漢籍を教示したことである。新楽府進講である。これは『源氏物語』にそれ相応の学識が見て取られたためだった。第二に、彰子の出産のおそらく公式の記録を制作したことである。後述のように、彰子は父の道長の期待をまもなく実現し、天皇との子供を出産することになる。紫式部は分泌に優れていたので、おそらく道長の依頼により、この公式の記録を作成することになった。これが『紫式部日記』の原型となる。なお、そこでは、彰子は慎み深い性格と評されていた。また、別の箇所では、紫式部はほかの女房とともに、彰子を自身の主人としている幸せを歌で詠み合っている。
 また、次のようなエピソードも重要であろう。後述のように1008年に敦成親王が誕生したときのことである。内裏還啓にあわせて、おそらく彰子主導で紫式部を中心に、『源氏物語』の御冊子作りが行われた。本書を丁寧に書き写しては清書し、冊子にしたのである。彰子が本書をいかに誇りに思っていたかが伝わってくる。
 ちなみに、紫式部の娘の賢子もいずれ彰子の女房となる。

 彰子の出産:藤原道長の政権確立への寄与

 上述のように彰子が天皇の後宮に入って天皇の妻になることは、藤原道長が実権を握るうえで非常に重要だった。なぜか。当時は摂関政治の時代である。すなわち、摂政や関白が実権を握っていた。一般的に、当時の摂政や関白は天皇の母系家族から選ばれている傾向にあった。そのため、摂政や関白になって実権を握ろうと思うならば、娘を天皇の後宮に入れることが極めて重要だった。同様に、娘に天皇の男子の後継者を産んでもらうことも重要だった。そのためには、天皇を惹きつけるような魅力が求められた。
 そのため、上流貴族たちは競って娘たちに優れた教育を施した。後宮で他の后候補たちに競い勝つために、才女たちが女房として呼び集められた。道長はこの点で特に秀でていたそうである。実際に、彰子は美しいだけでなく、優れた才覚の持ち主として評判の女性に育てあげられた。そのため、紫式部たちの上述のような文化活躍は藤原氏の宮廷生活を一層華やかで豊かにしただけではない。藤原氏の実権掌握でも重要な役割を担っていたのである。
 彰子は道長の望みをかなえた。1008年に敦成(あつひら)親王を、1009年に敦良(あつなが)親王を生んだのである。敦成は後に後一条天皇として、敦良は後朱雀天皇として即位することになる。そのため、道長はいわゆる外戚政策を展開することが可能になった。外戚政策は他氏排斥(ライバル排除)の政策とともに、道長の主な手段の一つだった。

 「国母」として:政治権力の中枢へ

 後一条天皇が幼くして即位した頃から、彰子は天皇を支える「国母」としての自覚が芽生えた。1011年、夫の一条天皇が没した。1012年、彰子は皇太后となった。1018年、子の後一条天皇が元服したため、彰子は太皇太后となった。
 ここで重要なのは、母后としての彰子の役割である。長らく、皇后の役割は次期後継者の皇子を産むことだったと考えられてきた。だが、皇后がより積極的な政治的役割を担っていたこともわかってきた。
 彰子は母后として政治権力を広範に行使した。もちろん、父道長やその弟の頼通が摂政になり、栄華を謳歌した。だがその時期においても、彰子は政治から隔絶された場所にいたわけではなかった。たとえば、親王の天皇即位式では天皇とともに高御座にのぼり、行幸時には天皇と同輿した。常に天皇の近くでその政治を支えた。道長に従一位を賜い、あるいはこれ太政大臣に任じたのは彰子であった。その他の人事などにも関与できた。特に彰子が政治権力を握っていたのは、敦成親王が天皇として即位してから元服するまでと評されている。また、彰子は天皇家の財産管理を取り仕切った。

 晩年

 1026年、彰子は出家し、上東門院の号を賜った。それでも政治の世界から身を引いたわけではなかった。上皇のように朝覲行幸を受けた。摂政の頼通は彰子の意向を無視できなかった。そのため、彰子は藤原家の摂関政治から、次世代の院政への橋渡しの役割を担ったという評価もある。後宮ではその頂点に君臨し、所属する女性たちの間に序列を設け、秩序を維持した。
 87歳で没するまでに次々と肉親に先立たれ、寂寥の晩年となった。

藤原彰子の肖像画

藤原彰子 利用条件はウェブサイトで確認

 藤原彰子と縁のある人物

☆紫式部:彰子に仕えた女房。日本を代表する中世の作家。

●和泉式部:同じく彰子に仕えた女房。紫式部ほど海外では知られていないが、それでも作品は外国語に翻訳されている。

おすすめ参考文献

古瀬奈津子, 東海林亜矢子『日記から読む摂関政治』臨川書店, 2020

服藤早苗『藤原彰子』吉川弘文館, 2019

桜井宏徳編『藤原彰子の文化圏と文学世界 』武蔵野書院, 2018

諸井彩子『摂関期女房と文学』青簡舎, 2018

朧谷寿『藤原彰子 : 天下第一の母 』ミネルヴァ書房, 2018

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