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ジョージ・ブキャナン

 ジョージ・ブキャナンは16世紀のスコットランドの人文学者で詩人(1506ー1582 ) 。1560年代のスコットランドでの宗教改革を先導した一人であり、著名な人文主義者でもあった。貴族やプロテスタント教会が女王メアリーを廃位するのを正当化した。メアリーがイングランドに亡命した後、ブキャナンは新たな王のジェイムズ6世の家庭教師をつとめた。

ブキャナン(George Buchanan)の生涯

 ブキャナンはスコットランドのスターリングシャーで生まれた。若い頃には、スコットランドのセント・アンドリュース大学とフランスのパリ大学で学んだ。

 人文学者として

 その後、ブキャナンはパリで人文学を教えた。カトリックのフランシスコ修道会に批判的な著作を公刊したため、異端として逮捕され、投獄された。だが、ブキャナンはどうにかそこを脱出し、ボルドーへ逃れた。同地のギュイエンヌ学院で教鞭をとった。学生の中には、後にフランスの著名な人文学者となり『エセー』を公刊することになるモンテーニュも含まれていた。

 この時期、ブキャナンは古代ギリシャの悲劇作家エウリピデスの著作をラテン語に翻訳するなど、人文学者として手腕を振るっていた。また、すでに専制主義への批判的態度も示していた。

 ポルトガルへ

 1547年、ブキャナンはポルトガルに移り、コインブラ大学で教鞭をとった。この時期、ポルトガルは大航海時代の主役の一つであり、黄金時代を迎えていた。ブラジルやアフリカおよび東アジアで広大な海洋帝国を形成していた。ブキャナンはこの頃にブラジル人について知り、彼らの能力を低く評価した。これは当時のヨーロッパでの常識的な意見だった。同時に、ポルトガルの海洋帝国や貿易の独占政策などについても知り、これを強欲と腐敗として批判した。

 この時期のポルトガルはジョアン3世の治世だった。ジョアン3世は敬虔王と呼ばれている。海外では宣教活動を強く推進した。たとえば、フランシスコ・ザビエルを東アジア宣教に派遣したのもジョアンである。同時に、国内ではカトリック政策を推進した。その一環で、異端対策にも力を入れていた。ブキャナンはここでも異端の嫌疑で捕まり、投獄された。1552年、ようやく釈放された。

 その後、ブキャナンはフランスへ移った。この頃、スコットランドのメアリー・スチュワートがフランス国王の妃として嫁いでいた。ブキャナンはメアリーの結婚を祝した詩を公刊した。

 スコットランドの宗教改革

 1561年、ブキャナンはスコットランドに戻ってきた。前年、スコットランドでは宗教改革の戦争が行われていた。カトリック王権にたいしてプロテスタント諸侯が反乱を起こし、勝利した。かくして、スコットランドでは宗教改革が実現されていた。
 そもそも、宗教改革は1517年にドイツでルターが本格的に開始したものである。その後にカルヴァンやツヴィングリなど多くのプロテスタントが活動を行った。その波がスコットランドに押し寄せ、カトリック王権を打ち倒したのだった。イングランドの宗教改革が王権によって上からもたらされたのに対して、スコットランドの宗教改革は王権に反対することで下からもたらされたと評されている。
 その後、上述のメアリー・スチュワートが嫁ぎ先のフランスからスコットランド女王としてスコットランドに帰国した。夫が早くして没したためだった。メアリーはカトリックを護持した。そのため、ノックスらのプロテスタントの牧師や諸侯と対立した。ブキャナンは当初、メアリーを支援していた。だが、メアリーの様々なスキャンダルなどにより、ブキャナンはメアリーと対立するようになった。

 女王への反乱とその正当化

 ついに、1567年、プロテスタント諸侯は女王メアリーに戦争を仕掛けた。この戦いに勝利し、メアリーをスコットランドから追放した。だが、この追放は国際的に小さからぬ波紋を引き起こした。というのも、メアリーは明らかに正統な君主であったにもかかわらず、その臣下たちに暴力的に追放されたからである。フランスの王権がショックを受けただけでない。プロテスタントだったイギリス(イングランド)の王党派もまたこれには困惑した。
 そのため、スコットランドのプロテスタント政府はこの追放を正当化することにした。同年、スコットランドでは教会の総会が開催された。ここで、ブキャナンはこの反乱を正当化するという重要な役割を果たした。
 さらに、ブキャナンはその正当化のための著作を対外的に公刊するよう求められた。ブキャナンはこの時期には人文主義者として国際的な名声をもっていたので、適任だった。
 まず、1571年には、ブキャナンは『スコットランド女王メアリーの諸行の検査』を出版した。そこでは、メアリーが夫ダーンリーの殺害の責任をもつと論じようとした。たとえば、ダーンリーを殺害したボスウェルへのメアリーの恋文とされるものが本書の付録として添付された。このような暴露本によって、ブキャナンはメアリーの国際的な評判を貶めようとした。また、本書によって、メアリーがスコットランドに戻ってきたりフランスに亡命したりするのではなく、イングランドに幽閉され続けるようイギリス政府を説得しようとした。

『スコットランド王国の法』

 より重要なのは、1579年に公刊された『スコットランド王国の法』 である。この本によって、ブキャナンは暴君の追放や征伐を正当化している。
 本書において、ブキャナンは正統な王と暴君を区別する。王は民衆の同意によって権力を獲得し、法によって統治し、法に服従する者である。臣民の利益のために統治する。法の解釈と適用のために、王は賢人からなる評議会を持ち、彼らによって導かれることを認めなければならない。暴君は同意なしに権力を掌握し、自身で法律を作ることができ、それに縛られる必要はないと主張する。 評議会などによる助言も受け入れない。 暴君は自分の個人的利益のためだけに支配する。
 ここで重要なのは、臣民が服従の義務を負うのは王だけだという点である。暴君にたいしては、服従の義務はない。それどころか、暴君の支配は合法ではないので、退位させることができる。そのためには、暴力を用いてよい。それは自然理性(暴力は暴力によって追い払えと教える)や歴史的事例が示すことである。このようにして、メアリーの強制的な退位もまた正当化される。
 本書の形式的特徴として、ブキャナンはカルヴァン主義者であったが、そこでの理論は人文主義的だった。当時のイギリスでの暴君征伐論は宗教的な根拠に基づくものが一般的であったので、ブキャナンの理論は例外的だった。
 ちなみに、当時はフランスやドイツ、ネーデルラントなどでも内戦や反乱が起こっていた。そのため、このような君主への抵抗や反乱を正当化する議論はヨーロッパの各地で生み出されていた。ブキャナンはその主だった論者の一人だった。

 晩年:ジェームズ6世の教育

 メアリーが追放されたかわりに、その息子が幼いままスコットランド国王ジェームズ6世に即位した。ブキャナンはその家庭教師をつとめた。若き王には立憲主義思想などを教え込んだ。だが、ジェームズは成長するとともに、この師の思想と対立するようになる。

 ブキャナンと縁のある人物

●メアリー・スチュワート:スコットランド女王。プロテスタント諸侯と対立し、内戦の末に、イングランドへ亡命した。この内戦を女王の視点でみると、どうみえるのだろうか。
メアリーの記事を読む

●ジョン・ノックス:スコットランドの神学者。スコットランドに宗教改革を導入した主要人物。宗教的理由などでのイングランドやジュネーヴなどでの長い亡命期間を経て祖国に戻った。スコットランド宗教改革の進展を理解するには、ノックスについても知る必要がある。
ノックスの記事を読む

●ミシェル・ド・モンテーニュ:フランスの貴族で作家エリートの道を進んだが、30代半ばでそれまでのキャリアから身を引き、思索の道に移ろうとした。その成果は『エセー(随想録)』にみられた。フランスのルネサンスの主だった人物。ブキャナンの学生はどのような人生を歩み、どのような思想を展開したか。
モンテーニュの記事を読む

ブキャナンの肖像画

じょーじ・ブキャナン 利用条件はウェブサイトで確認

 
ブキャナンの主な著作・作品

『スコットランド王国の法』 (1579)

『スコットランド史』 (1582)

おすすめ参考文献

Robert Wallace, George Buchanan, Kyokuto Shoten, 2014

Philip J. Ford, George Buchanan : prince of poets, Aberdeen University Press, 1982

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