グスタフ・アドルフ

 グスタフ・アドルフは17世紀前半のスウェーデン王(1594ー1632)。グスタフ2世として即位した(1611ー32)。ロシアやデンマークなどにたいする戦争で勝利し、バルト海を支配するのに成功した。30年戦争(1618ー48)でのプロテスタント側の英雄としても知られるが、その戦争中に死んだ。

グスタフ・アドルフの生涯

 グスタフはスウェーデン国王カルル9世の長男として生まれた。カルル9世はスウェーデンの王権をポーランド王ジグムント3世ワーザから簒奪するかたちで即位したので、彼と戦争状態にあった。王権簒奪という即位の仕方であったので、国内は混乱していた。さらに、カルルはロシアの王に自身の子供を擁立しようとしたので、ロシアとも戦争状態にあった。この関連で、デンマークとも戦争状態にあった。

 1611年、父が没した。グスタフは17歳に達する前に即位した。上述のような危機的な状況でスウェーデン王権を引き継いだ。

グスタフの治世:宰相オクセンシェルナ

 だが、グスタフは宰相オクセンシェルナの働きに助けられながら、どうにか窮地を脱していく。

 まず、グスタフはデンマークとの戦争を最小限の被害の条件で終わらせようとした。そのためには、巨額の賠償金や港町エルブスボリの割譲を余儀なくされた。それでも、1613年のクネレド講和条約を結び、この戦争を終わらせた。

 次に、グスタフはロシアとの戦争の終結も図った。この戦いは1617年のストルボバ条約の締結で終わった。グスタフはロシアが北海に進出してバルト三国を攻略するのを恐れていた。だが、この条約により、ロシアは関連地域の領地をスウェーデンに割譲したので、バルト三国から切り離された。

 その頃、アドルフは国内貴族と有効な関係を築いた。法や軍隊、教育など多面的に国内の諸制度を改革していった。さらに、オランダからの資本を呼び込み、財政を安定させようとした。

 1620年、アドルフはブランデンブルク選帝侯の娘マリア・エレオノラと結婚した。アドルフはポーランドなどとの戦争のために、同盟軍を求めていた。その後、ポーランドとの戦争を再開始、リガを攻略した。

 同時に、グスタフは30年戦争にも関心を痛いた。神聖ローマ皇帝がプロテスタント勢力を打ち破ったため、これに脅威を感じるようになった。

 1629年、ポーランドとの戦いは休戦となった。これにより、グスタフは30年戦争に集中できるようになった。

30年戦争への参加

 1629年、ついにグスタフはプロテスタント側でこの戦争に参戦した。軍隊改革などの効果により、勝利を重ねた。1631年には、ブライテンフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝フェルディナント2世の軍に打ち勝った。グスタフは事実として神聖ローマ帝国のプロテスタント勢力の盟主となり、「北方の獅子」と呼ばれた。

 だが、1632年、グスタフはリュッツェンの戦いで戦死した。

グスタフ・アドルフの肖像画

グスタフ・アドルフ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

リチャード・ブレジンスキー『グスタヴ・アドルフの騎兵 : 北方の獅子と三十年戦争』小林純子訳, 新紀元社, 2001

タイトルとURLをコピーしました