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ヨハネス・グーテンベルク:活版印刷術

 ヨハネス・グーテンベルクは15世紀のドイツの印刷職人(?ー1468) 。活版印刷技術の発明者として知られてきた。この技術革新により、印刷本が普及していった。この記事では、グーテンベルクの生涯や功績そして影響を扱う。これからみていくように、ある種の革命を起こしたというような単純なものではないが、たしかに重要な遺産をのこした。

グーテンベルク(Johannes Gutenberg)の生涯

 グーテンベルクはドイツのマインツで貴族の家庭に生まれた。本名はヨハネス・ゲンスフライシュである。グーテンベルクは母親の姓だった。

 ストラスブールでの金細工職人として

 グーテンベルクは飾り職ギルドに入り、金細工職人としての腕を磨いた。1434年頃には、ストラスブールに移った。ここでの経験が活版印刷術の発明につながることになる。少し詳しくみてみよう。

この時代の野心的職人

 グーテンベルクはこの時代の典型的な野心的職人だった。この時代、野心的な職人たちは単なる職人ではなく、芸術家でもあろうとし、新しい知識を創造しようと活発に取り組んでいた。
 金細工職人はその典型であった。彼らは様々な工芸の技術を組み合わせた。たとえば、彫刻や染色である。大砲や時計を製造しようともした。このように、金細工職人は先取の精神のもとで、様々な技術を取り入れ、組み合わせて新しいものを開発しようとした。

 グーテンベルクの事業とその失敗

 グーテンベルクもまた野心的な金細工職人だった。彼がストラスブールで企画したのは、巡礼者向けの巡礼グッズの大量販売だった。
 中世ヨーロッパでは、現在もそうだが、キリスト教の巡礼が大流行していた。巡礼者は病気の治癒などを目的に、巡礼地の教会を訪れた。巡礼地では、様々な巡礼グッズが販売された。
 ドイツにはアーヘンという有名な巡礼地が存在する。アーヘンでは、定期的に聖遺物が公開された。いわば、有名な仏閣での本尊のご開帳のようなものだ。グーテンベルクはこれに合わせて、大量の巡礼グッズを製造した。これは鏡付きの金属ブローチである。
 だが、グーテンベルクはアーヘンでの公開の年を間違えた。そのため、倉庫に収まらないほどの巡礼グッズと大きな負債を抱えてしまった。

 失敗の効用

 だが、この失敗はグーテンベルクの印刷の発明にとって役に立つ面もあった。二点挙げられる。
 第一に、巡礼グッズの製造技術がのちの印刷機に役立つことになる。たとえば、グーテンベルクは冶金学により精通するゆおうになった。大量生産のために、分業を導入し、手作業からプレスの機械の工程に置き換えた。
 その際に、1枚の原版から無制限に複製を作った。熟練労働者と材料費を賄うために必要な高額な初期投資について学んだ。
 第二に、この大きな負債から立ち直るために、グーテンベルクは新たな事業を立ち上げようとした。これは印刷事業だった。共同事業者が没したので、結局失敗した。だが、これはのちの活版印刷の発明につながる事業だった。たとえば、ぶどうやオリーブの搾り機を改良して、印刷機を製造しようとした。

 活版印刷術の開発へ:功績

 1445年頃、グーテンベルクはマインツに戻った。活版印刷機の開発の夢を捨てておらず、技術開発に励んだ。
 たとえば、砂の型を使って、実質的に手作業でそれぞれの文字の型をつくり、何度も試行錯誤した。この方法は金属加工職人が壊れやすいものを模型化するのに用いたものである。
 この時期の文字の型はいわば手書き文字を金属にしたようだ字形だった。印刷後、文字が不鮮明ならば、手書きで補正が行われることもあった。
 はたして、活版印刷の技術は一通り確立された。グーテンベルクの功績としては、主に3つが知られる。
 第一に、金属の活字でも利用しやすいインクの開発である。これは煤とワニスから作られた粘性のある新しい印刷用インクである。従来の水性インクやベラム専用のインクよりも濃く、永久的で、紙に適していた。。
 第二に、このインクに適した合金の発明である。鉛とスズそしてアンチモンを組み合わせた「スペキュラム」という活字用の新しい金属である。インクをしっかりと紙に付着させるのに適した新しい金属である。
 第三に、印刷を活字によって行うこと、すなわち活版印刷術のアイデアである。印刷のために、再利用や再配置が可能な文字の型を大量に組み合わせて、一つのページをつくる。このような方法の発明である。これにより、印刷は効率性が飛躍的にあがった。
 ちなみに、 印刷工程は、中世の写本の制作過程を手本とした。活字をつくり、ページや本をデザインし、活字を配置してページを構成し、挿絵やイニシャルの木版画を作り、最後に印刷機そのものを操作して、印刷した。

 フストとの共同の印刷事業

 グーテンベルクは活版印刷の技術を開発したが、印刷業の資金がなかった。後述のように、活版印刷機による印刷事業には多額の費用がかかるためだ。
 そこで、1450年頃、グーテンベルクは金細工師 のフストと手を組んで、資金を提供してもらった。フストの養子のシェッファと新たな印刷所を設立した。

 グーテンベルクの印刷物:『四十二行聖書』

 グーテンベルクの公刊物として有名なのは『四十二行聖書』である。グーテンベルクは1449年からこの聖書の制作を始めた。1456年になって、100部ほどが完成した。
 『四十二行聖書』は盛況だったようで、すぐに売れたようだ。たとえば、聖職者のピッコローミニはこの聖書に惹かれ、購入するために予約した。だが、ほかにも購入希望者が多かったため、無事に買えるか不安を抱いたほどだった。ちなみに、このピッコローミニはこの記事の後のほうで、重要な人物としてもう一度登場する。
 なお、この聖書のうちの30部は、従来のように、羊皮紙を用いたことである。これは興味深いことであるが、この点も後述しよう。

印刷事業の失敗

 しかし、グーテンベルクはこの事業の資金繰りに失敗した。さらに、フストの間で経営方針などで対立が生じるようになった。
 1455年、グーベンベルクは未払いの債務のために、フストから裁判が起こされた。その結果、この印刷所はフストに帰属することになった。自分自身の印刷所から追い出されることになった。

晩年

 その後、グーテンベルクはフンマーの財政支援をえて、再び印刷業を開始した。だが、1460年頃には失明したようだ。マインツ大司教の年金で余生を過ごした。

 なお、活版印刷機の発明については、グーテンベルクがどの点で最初だったかについて意見が割れている。従来はグーテンベルクによる活版印刷術の大きな変革が起こったと考えられ、これは革命とも表現されてきた。だが、そこまで単純な見方は現在ではほぼ通用していない。よりニュアンスのある評価に移っている。

 グーテンベルクの、あるいは活版印刷術の影響

 この影響については様々な議論がある。ここでは、主に二つ取り上げる。

 本の制作への影響

 中世西欧では、本は写本という仕方で制作されてきた。手で書き写したのだ。主に修道院や大学(のある都市)で写本が制作された。
 活発印刷術によって、写本が一挙に廃れたわけではなかった。

 初期の印刷業の問題

 主な理由の一つは、活版印刷の事業は当初、リスクの高い事業だったことである。活版印刷では、同一の印刷物を大量に印刷したので、大量に売る必要があった。だが、そのための販路がまだ存在していなかった。
 なぜなら、従来の写本は大量に販売しなかったためである。写本はしばしば豪華な装飾が施され、一冊がとても高価だった。しばしば通常の家よりも高価であり、よって財産の一つだった。戦争が起これば、写本は略奪の対象になった。
 それゆえ、大量の写本を一気に売るという習慣がなかった。活版印刷による印刷本は、このような商業上の慣習をつくる必要があった。大量に印刷して売れなければ、大量の在庫を抱えることになる。
 さらに、印刷本は、1部でも販売される前に、全体が一通り作成されていなければならなかった。そのために、少なくとも数ヶ月の遅れが生じる可能性があった。だが、印刷会社は通常、それに耐えるだけの資金に困っていた。信用を確保するのが難しかったからである。
 それらの結果、実際に、初期の活版印刷所の多くは短期間で倒産した。
 一般的に、活版印刷術は1500年頃にはヨーロッパで一挙に広まったといわれる。たしかに、ヨーロッパの主要な都市には印刷所が次々と設立された。だが、その多くはまもなく次々と倒産していったのである。よって、活版印刷がヨーロッパにしっかりと根付くのには時間がかかった。

グーテンベルクの場合

 グーテンベルクとの関連で興味深いのは、四二行聖書にかんしてである。上述のように、これは100部が制作された。そのうちの30部は、従来のように、羊皮紙を用いた。しかも、グーテンベルクはこの30部に豪華な装飾も行ったのである。羊皮紙を用いる豪華版の聖書は中世の聖書の写本の伝統に属するものである。
 グーテンベルクは活版印刷という新技術を用いながら、旧来の写本市場に適応して、羊皮紙と豪華な装飾を取り入れたのである。
 逆に言えば、グーテンベルクは印刷本の大量販売の難しさに当初から気づいていた。だから100部しか制作しなかった。ストラスブールでの巡礼グッズの在庫を大量に抱え込んでしまった経験がここに反映されているともいえる。
 それでも、グーテンベルクは資金繰りが悪化して、失敗した。初期の印刷事業はそれほどリスクの高いものだった。
 結果的に、写本の制作自体はながらく残ることになる。理由としては、たとえば、豪華本は印刷本に適さず、写本が好まれ続けたためである。あるいは、印刷本の値段は写本より安かったとはいえ、まだまだ高価な品物だったためである。
 かくして、活版印刷術が本の制作や販売に影響を与えるには、長い時間がかかることになった。

 同時代への影響:宗教改革

 だが、活版印刷術は同時代にほとんど影響を与えなかったのではない。しばしば挙げられるのは宗教改革への影響である。1450年代に誕生した活版印刷術は1510年代に始まるドイツ宗教改革に影響を与えた、と。
 まず指摘されるのは、贖宥状(免罪符)の印刷である。贖宥状は人間の罪を免じるというカトリック教会の公文書である。俗っぽい言い方をすれば、免罪符を得ることで地獄ではなく天国にいけると考えられた。
 中世では、贖宥状も手書きだった。だが、活版印刷術により、贖宥状が短期間で大量に印刷することができた。贖宥状は本と違って、一枚程度の紙である。資材も労力も少なくてすむ。
 しかも、これは教会から大量に注文が入ったので、それなりの需要が確保できた。よって、初期の活版印刷業者がその印刷を引き受けた。
 有名なのは、教皇レオ10世がヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂の再建のために、贖宥状を大量に発行したことである。これがきっかけとなって、ルターが「95か条の論題」を公表した。ここから、宗教改革が始まる(より詳しくは、「ルター」の記事を参照)。
 このように、結果的にみれば、活版印刷術は贖宥状の大量発行を可能にすることで、宗教改革の始まりの一因となった。ほかにも、宗教改革派は当初から活版印刷を宣伝で積極的に利用していたことも指摘されている。
 

 グーテンベルクの贖宥状

 実のところ、グーテンベルクも贖宥状を印刷していた。
 その背景として、1453年、オスマン帝国がコンスタンティノープルを攻略し、ビザンツ帝国を滅ぼした。ビザンツ帝国はキリスト教の東方正教を奉じる国であり、オスマン帝国はイスラム教を取り込んでいった。
 ビザンツ帝国はこの崩壊の前から、西欧の諸君主やローマ教皇にたいして、オスマン帝国の脅威を訴えた。自身への支援を求めていた。そのため、崩壊の前後で、オスマン帝国への十字軍を求める声もあがっていた。
 1458年、上述のピッコローミニが教皇ピウス2世に即位した。ピウスは早速、オスマン帝国にたいする十字軍を提唱した。
 中世において、十字軍は贖宥状を発行する典型的なケースだった。十字軍のもとで神のために戦う者は天国行きをカトリック教会によって約束されたのである。
 このような文脈で、グーテンベルク自身もまたオスマン帝国への十字軍の贖宥状を印刷した。十字軍の贖宥状であるので、レオ10世の贖宥状とは性質は異なる。だが、グーテンベルク自身が贖宥状を印刷していたのは興味深い事実である。

グーテンベルクの肖像画

グーテンベルク 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

スタン・ナイト『西洋活字の歴史 : グーテンベルクからウィリアム・モリスへ』安形麻理訳, 慶應義塾大学出版会, 2014

Jonathan Green, Printing and Prophecy: Prognostication and Media Change 1450-1550, University of Michigan Press, 2012

Leslie Howsam, The Cambridge companion to the history of the book, Cambridge University Press, 2015

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