萩原朔太郎:白い月の詩人

 萩原朔太郎は大正と昭和の詩人(1886―1942)。10代後半には詩人としてデビューし、31歳で代表作の『月に吠える』で近代詩の代表的な詩人となった。その後も詩の制作や理論的考察、また評論などで活躍した。晩年には後進の育成にも励んだ。 なお、以下では萩原朔太郎の肉声や肖像画も楽しめます。

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の生涯

 萩原朔太郎は群馬県の前橋で医者の家庭に生まれた。少年期から文芸を好み、短歌を制作しては、『明星』などに投稿した。絵画や音楽にも親しんだ。1907年、第五高等学校に入ったが、まもなく退学した。1908年、第六高等学校に入った。短歌の制作と投稿を続けた。だが、1910年に中退した。

 その後、音楽家の道を志した時期もあり、マンドリンを習った。

この時期の萩原の短歌の一部を紹介

ばらばらと せまき路地より 女ども はしりかかりぬ にぐるひまなし

夕されば そぞろありきす 銃器屋の まへに立ちては ピストルをみる

始めての 床に女を 抱く如き ものめづらしき 怖れなるかな

春の夜は 芝居の下座の すりがねを 叩く男も うらやましけれ

ひるすぎの  HOTEL の窓に  COCOA のみ くづれし崖の あかつちをみる

幼き日 パン買ひに行きし 店先の 額のイエスを いまも忘れず

二月や 笛の稽古に 通ひたる 故郷の町の 橋のうす雪

 詩人としての開花:『月に吠える』

 萩原は詩作も続け、ついに眼が出た。1913年、北原白秋(きたはらはくしゅう)主宰の文芸雑誌『朱欒(ざんぼあ)』に投稿した詩が掲載され、一定の評価を得た。

 この頃、萩原は若き室生犀星(むろうさいせい)と知己になった。1914年には、室生と山村暮鳥(やまむらぼちょう)の三人で人魚詩社を結成し、翌年には『卓上噴水』を創刊した。だが第三号で廃刊となった。1916年には室生と詩誌『感情』を創刊した。そこでは、感情のリズムを重視した口語の自由詩を発表していき、詩壇に一つの流れを生み出そうとした。

 1917年、萩原は処女詩集にして代表作の『月に吠える』を公刊し、一躍文名を高めた。これは近代詩史上の記念碑の一つとなった。1919年、上田稲子と結婚した。この頃、萩原は詩作以外にも裾野を広げ、詩の理論などの考察にはげんだ。

『月に吠える』の詩を二つ紹介

光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。

あふげば高き松が枝に琴かけ鳴らす、
をゆびに紅をさしぐみて、
ふくめる琴をかきならす、
ああ かき鳴らすひとづま琴の音にもつれぶき、
いみじき笛は天にあり。
けふの霜夜の空に冴え冴え、
松の梢を光らして、
かなしむものの一念に、
懺悔の姿をあらはしぬ。

いみじき笛は天にあり。

 活動の広がり:詩や評論と小説

 1921年から萩原は詩の発表を再開した。1922年にはアフォリズムを集めた『新しき欲情』を公刊した。1923年に詩集『青猫(あおねこ)』を公刊した。1925年、東京に移った。評論活動なども行った。この頃、病気療養中の梶井基次郎の見舞いにいった。そこで、駆け出しの詩人の三好達治と知り合った。三好は『月に吠える』に感銘を受けていた。そこで、萩原と三好の師弟関係が始まった。1929年に萩原は評論『虚妄の正義』を公刊した。同年、離婚し、翌年、父をなくした。

 芥川龍之介との深い交流

 1924年頃から、萩原はすでに文学的に成功していた芥川龍之介と交流を始めた。萩原の言うところによれば、両者はかなり深い交際をした。お互いに、もっと前から知り合っていればよかったと考えたほどだった。だが、芥川は1927年に自殺した。萩原は突然この知らせを聞いて、裏切られたような怒りと寂しさを感じた。芥川が没して数年後、萩原は芥川との間柄について「芥川君との交際について」で述べている。
 萩原は芥川の人柄をこう評している。一面において、芥川は社交的であり、友人が非常に多かった。軽妙に冗談を言っては、周囲を和ませていた。繊細な性格であり、社交的な礼節に神経をすり減らしていた。だが、真に打ちとけた親友は案外少ないようだった。芥川はインテリ型の秀才肌で、文明人であり、教養や趣味が洗練されていた。そのため、その反対の性格の人々に興味を惹かれたのだろう。たとえば、芥川が敬愛していた菊池寛は野性的で豪放である。神経質なボードレールが豪放なヴィクトル・ユーゴーを崇敬していたようなものだ。そのような友人を欲したが、芥川の周りにはあまりいなかったので、実は孤独を感じていたのだろう。
 萩原は芥川との関係を語る。芥川が萩原に興味を抱いたのは、おそらく両者のニヒリスティックな部分が共鳴したからだろう。芥川が最晩年に公刊した『河童』は萩原に読んでもらいたかったそうだ。萩原は芥川の著作への批評を行い、芥川は萩原の詩の批評を行った。芥川は萩原の「郷土望景詩」を特に好み、称賛した。その感動を伝えるために、早朝に寝床から飛び起きて萩原の邸宅まで駆けてきたほどだった。普段の会話では、生活の意義を懷疑したり、生死の問題や宗教哲学について論じあった。芥川はこれらについて非常に懷疑的で、絶望的にニヒリスティックだった。芥川は自身と萩原が文壇では一番似た詩人だと常に語っていた。おそらく、芥川は萩原の野性的直情に惹かれたのだろうと彼自身は推測する。

 芥川が激賞した「郷土望景詩」から4つの詩を紹介

中學の校庭

われの中學にありたる日は
なまめく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寢ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日てんじつ直射して熱く帽子に照りぬ。

波宜亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭はぎていの二階によりて
かなしき情歡の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木さうもく茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干おばしまにさへ記せし名なり。

二子山附近

われの悔恨は酢えたり
さびしく蒲公英たんぽぽの莖を噛まんや。
ひとり畝道をあるき
つかれて野中の丘に坐すれば
なにごとの眺望かゆいて消えざるなし。
たちまち遠景を汽車のはしりて
われの心境は動擾せり。

才川町

――十二月下旬――
空に光つた山脈やまなみ
それに白く雪風
このごろは道も惡く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都會
ならべる町家の家竝のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓窓
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。

 晩年

 1934年、萩原は詩集『氷島(ひょうとう)』を公刊した。これ以降、詩の制作はほとんどなくなった。1935年、堀辰雄が創刊していた詩誌『四季』に迎えられ、後進を育てた。

 この頃、「汚れちまった悲しみに」で有名な詩人の中原中也について、萩原はこう評している。中原とフランスの詩人は似ている。純情で虚無的な点や、わがままで人と交際できない点、アナーキーで不良少年じみた点、特に変質者的な点で似ている。だが、ランポーが透徹した知性人であったのにたいし、中原は殉情的な情緒人だった点では異なる。この感情の純潔さが中原の詩における最も尊いエスプリである。

 萩原は島崎藤村については「永遠の詩人」でこう評している。今日において、島崎藤村は小説家として有名であるが、20代の頃には詩作に励んでいた。『若菜集』などの詩集を公刊していた。萩原は少年期から藤村の詩を愛読していた。ただし、当時の萩原にとっては、藤村の詩はあまりにナイーヴで明るすぎ、陰影のないところに不滿を感じたものだった。萩原は藤村の詩をゲーテに準えている。萩原は年をとり、近年に藤村の自選詩集を読み直した。藤村の詩を「眞の本質的なポエヂイをもつたところの、眞の純粹の詩」だと強く感じた。この自選詩集は藤村が詩作をやめたあとに編纂された。そのため、藤村は「今日の老年に至るまで、一貫してその魂に純のリリツクを所有して居るところの、眞の宿命的な詩人」だといえる。藤村は小説家となって久しい。だが、彼の小説には「旺盛な詩的情熱」が溢れている。ただ形式が詩から小説に変わったにすぎない。藤村文学の本質は『若菜集』から『夜明け前』に至るまで常に詩であり、詩精神である。

 1942年に没した。

 ちなみに、萩原は俳句も制作している。たとえば、次のものがある。

ブラジルに珈琲植ゑむ秋の風

枯菊や日日にさめゆくいきどほり

プラタヌの葉は散りはてぬ靴磨き

冬さるる畠に乾ける靴の泥

虹立つや人馬にぎはふ空の上

人間に火星近づく暑さかな

 『月に吠える』の詩を紹介

掌上の種

われは手のうへにつちを盛り、
つちのうへに種をまく、
いま白きじようろもて土に水をそそぎしに、
水はせんせんとふりそそぎ、
つちのつめたさはたなごころの上にぞしむ。
ああ、とほく五月の窓をおしひらきて、
われは手を日光のほとりにさしのべしが、
さわやかなる風景の中にしあれば、
皮膚はかぐはしくぬくもりきたり、
手のうへの種はいとほしげにも呼吸いきづけり。

天景

しづかにきしれ四輪馬車、
ほのかに海はあかるみて、
麦は遠きにながれたり、
しづかにきしれ四輪馬車。
光る魚鳥の天景を、
また窓青き建築を、
しづかにきしれ四輪馬車。

悲しい月夜

ぬすつと犬めが、
くさつた波止場の月に吠えてゐる。
たましひが耳をすますと、
陰気くさい声をして、
黄いろい娘たちが合唱してゐる、
合唱してゐる、
波止場のくらい石垣で。

いつも、
なぜおれはこれなんだ、
犬よ、
青白いふしあはせの犬よ。

春夜

浅蜊のやうなもの、
蛤のやうなもの、
みぢんこのやうなもの、
それら生物の身体は砂にうもれ、
どこからともなく、
絹いとのやうな手が無数に生え、
手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。
あはれこの生あたたかい春の夜に、
そよそよと潮みづながれ、
生物の上にみづながれ、
貝るゐの舌も、ちらちらとしてもえ哀しげなるに、
とほく渚の方を見わたせば、
ぬれた渚路には、
腰から下のない病人の列があるいてゐる、
ふらりふらりと歩いてゐる。
ああ、それら人間の髪の毛にも、
春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、
よせくる、よせくる、
このしろき浪の列はさざなみです。

白い月

はげしいむし歯のいたみから、
ふくれあがつた頬つぺたをかかへながら、
わたしは棗の木の下を掘つてゐた、
なにかの草の種を蒔かうとして、
きやしやの指を泥だらけにしながら、
つめたい地べたを掘つくりかへした、
ああ、わたしはそれをおぼえてゐる、
うすらさむい日のくれがたに、
まあたらしい穴の下で、
ちろ、ちろ、とみみずがうごいてゐた、
そのとき低い建物のうしろから、
まつしろい女の耳を、
つるつるとなでるやうに月があがつた、
月があがつた。

萩原朔太郎の肖像写真

萩原朔太郎 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 『氷島』の詩の一部を紹介

乃木坂倶樂部

十二月また來れり。
なんぞこの冬の寒きや。
去年はアパートの五階に住み
荒漠たる洋室の中
壁に寢臺べつとを寄せてさびしく眠れり。
わが思惟するものは何ぞや
すでに人生の虚妄に疲れて
今も尚家畜の如くに飢ゑたるかな。
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり。
いかなれば追はるる如く
歳暮の忙がしき街を憂ひ迷ひて
晝もなほ酒場の椅子に醉はむとするぞ。
虚空を翔け行く鳥の如く
情緒もまた久しき過去に消え去るべし。

十二月また來れり
なんぞこの冬の寒きや。
訪ふものはどあつくし
われの懶惰を見て憐れみ去れども
石炭もなく煖爐もなく
白堊の荒漠たる洋室の中
我れひとり寢臺べつとに醒めて
白晝ひるもなほ熊の如くに眠れるなり。

殺せかし! 殺せかし!

いかなればかくも氣高く
優しく 麗はしく かぐはしく
すべてを越えて君のみが匂ひたまふぞ。
我れは醜きけものにして
いかでみ情の數にも足らむ。
もとより我れは奴隷なり 家畜なり
君がみ足の下に腹這ひ 犬の如くに仕へまつらむ。
願くは我れを蹈みつけ
侮辱し
つばを吐きかけ
また床の上に蹴り
きびしく苛責し
ああ 遂に――
わが息の根の止まる時までも。

我れはもとより家畜なり 奴隷なり
悲しき忍從に耐へむより
はや君の鞭の手をあげ殺せかし。
打ち殺せかし! 打ち殺せかし!

珈琲店 醉月

坂を登らんとして渇きに耐へず
蹌踉として醉月のどあを開けば
狼藉たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなくぜにを數へて盜み去れり。

新年

新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒氣の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
たびもまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢ゑて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絶して
たびもなほ昨日の悔恨を新たにせん。

晩秋

汽車は高架を走り行き
思ひはざしの影をさまよふ。
靜かに心を顧みて
滿たさるなきに驚けり。
ちまたに秋の夕日散り
鋪道に車馬は行き交へども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵むらきあふひの花は咲きたり。

――朗吟のために――

萩原朔太郎の小説『猫町』の朗読の動画(画像をクリックすると始まります)

萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の朗読

萩原朔太郎が友人だった著名作家の芥川龍之介による自殺について述べています

萩原朔太郎の記録された肉声を無料で聞けます

 萩原朔太郎の肉声を国立国会図書館のデジタルライブラリで聞くことができます。萩原が詩を朗読しています(https://rekion.dl.ndl.go.jp/pid/3571577)。

 萩原朔太郎と縁のある人物

堀辰雄:晩年の萩原の活動の場を与えてくれた作家。『風立ちぬ』で有名。

 萩原朔太郎の代表的な作品

月に吠える』(1917)
『新しき欲情』 (1922)
『青猫』(1923)
『純情小曲集』 (1925)
『虚妄の正義』(1929)
『氷島』 (1934)

画像(動画サムネ除く)は非商用および商用(ビジネス)の目的で無料で利用できます。ただし、出典の明記が必要です。利用条件についてより詳しくは、国立国会図書館のウェブサイトでご確認ください。

おすすめ参考文献と青空文庫


朔太郎大全実行委員会編『萩原朔太郎大全』春陽堂書店, 2022

※萩原朔太郎の作品は無料で青空文庫で読めます(https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person67.html)

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