アンリ4世:宗教戦争を終結させたフランス王

 アンリ4世はフランスの国王(1553ー1610)。ブルボン朝の最初のフランス国王。16世紀後半のフランス宗教戦争の時代に生まれた。当初はプロテスタントの軍事リーダーとして育てられ、活躍した。彼の結婚式の際に、サン・バルテルミの虐殺が起こった。その後もプロテスタントのリーダーとして活躍した。アンリ3世の死後、フランス国王となるべく、カトリックに改宗した。ナントの勅令を出し、宗教戦争を終わらせた。フランスの再建を進めた。だが、最後は・・・・。

アンリ4世の生涯

 アンリ4世はフランスのベアルンで、ヴァンドム公アントワーヌ・ド・ブルボンとジャンヌ・ダルブレの間に生まれた。母ジャンヌはプロテスタントの信奉者となった。アンリは10代前半のとき、母の影響下でプロテスタントの教育を受けた。ただし、上流貴族が受けるような文芸の教育はあまり受けず、農民たちの中で少年期を過ごした。

フランス宗教戦争の勃発

 1562年、フランスで宗教戦争が始まった。母ジャンヌによって、プロテスタント勢力の主導者だったコンデ公のもとに送られた。コンデ公が暗殺された後、母ジャンヌによって、アンリは次のプロテスタント主導者のガスパル・ド・コリニーのもとに送られた。アンリはそこで軍事リーダーとして育成された。1570年には、アンリは徐々に軍事的な才覚を発揮するようになった。

 同年、フランスでカトリックとプロテスタントの和約が結ばれた。1572年、その流れで、アンリはシャルル9世の妹マルグリット・ド・バロワと結婚した。当初、この結婚はフランスの宗教的対立を終わらせることが目的とされた。その結婚式に参加するために、プロテスタントの主要な貴族たちがパリに集まった。だが、カトリック王権は彼らを騙し討ちにした。コリニー提督など、プロテスタントの主要な貴族たちの多くが殺害された(サン・バルテルミの虐殺)。アンリもまた拿捕され、カトリックへの改宗を余儀なくされた。だが、そこから脱出した。1576年には再びプロテスタントに戻り、そのリーダーに復帰した。

 フランス王位継承権をめぐって

 1584年頃には、アンリ(4世)はフランスの王位後継者として浮上してきた。というのも、フランス王アンリ3世には子供がおらず、その弟が没したためである。フランスがプロテスタントの国になるのを妨げようとして、スペインが本格的に介入を始めた。アンリ3世、スペインに支援されたカトリック同盟のアンリ、のちのアンリ(4世)による三アンリの戦いとなった。

 カトリック同盟との対決

 1588年、コンデ公が没しため、アンリ(4世)はプロテスタントの最大のリーダーとなった。1589年、アンリ3世が暗殺された。だが、スペインは引き続きカトリック同盟を支援し、軍隊をフランスへ派遣した。1590年、アンリはカトリックの牙城だったパリを攻略したが、失敗した。その後のカトリック同盟との戦いは一進一退だった。

 このような中で、1593年、アンリはパリのサン・ドニ大聖堂でプロテスタントの信仰を捨て、カトリックに改宗した。フランス王位継承については、サリカ法でカトリックの者だけがフランス王に即位できると規定されていたことがその主な原因だった。1594年、シャルトルでアンリ4世として正式に戴冠式をおこなった。翌年、教皇の赦免をえて、フランス王として聖別された。

 ナントの勅令

 とはいえ、アンリ4世はすべてのフランス人の忠誠を勝ち得ていたわけではなかった。彼の改宗を見せかけのものにすぎないと思った人々もいた。1594年には、アンリへの暗殺未遂事件も起こった。また、宗教戦争で長らく対立してきた人々は簡単には相互の和解には至らなかった。アンリは彼ら全体を従わせようとした。

 同時に、1595年、アンリはカトリック同盟を支援してきたスペインとの戦争を開始した。思うような戦果をなかなかあげられなかった。だが、1598年、ヴェルヴァン条約を結び、スペインとの戦争を終結させた。 
 同年4月、アンリは国内での両宗派の対立を終わらせるべく、ナントの勅令を出した。ナントはアンリと対決を最後まで続けた都市だった。アンリはナントのブルターニュ公爵城に赴き、ナントの勅令に署名したのだった。これにより、ユグノーの信仰の実践がフランスで許可された。かくして、フランスでの宗教戦争が終わった(記事の後半にナントの勅令の画像あり)。

 アンリは国内の平和を回復すべく、従来の敵への恩赦を与えようとした。だが、これに反対する臣下もでてきた。というのも、従来、王は神のように不可侵の存在と考えられ、その身体への危害を加えようとすれば反逆罪として処罰されることになっていたためだ。よって、彼らは宗教戦争でのアンリの敵にたいしても処罰を要求した。だが、アンリは国内平和の再建を優先した。アンリは王権がフランスの伝統的な法や助言を超えるものとして、恩赦に踏み切った。恩赦は国王だけが与えることのできる命令だった。このようにして、アンリは国内平和回復のプロセスで、同時に王権の回復と強化をも図った。

 フランスの復興へ

 アンリは国内の政情不安を解消すべく、かつての敵には恩赦を与えることで、憎しみの連鎖を防ごうとした。国内での経済立て直しも図った。農業の発展を推進し、土地の開墾を進めた。重商主義政策もとられた。脱税対策をとり、不要な支出を削るなどして、財政の再建に成功した。1600年には、アンリはマリー・ド・メディシスと結婚した。息子がのちにルイ13世としてフランス王になる。

海外拡張の試み

 そのかたわら、アンリはフランスの海外拡張で徐々に成功し始めた。そもそも、16世紀、スペインとポルトガルが大航海時代のもとでヨーロッパ勢力としては先陣を切って海外拡張に成功していった。スペインは中南米に植民地帝国を、ポルトガルはブラジルと東アジアとアフリカにまたがる海洋帝国を築いた。フランスは1530年代には公式にこの植民地競争に参入しようとした。ブラジルやフロリダに植民地を建設しようとしたが、スペインなどの妨害によって失敗した。

 17世紀に入り、フランスはイギリスやオランダとともに、この植民地競争に本格的に参加した。中南米への進出は難しかったので、北米植民地の建設に着手した。1608年、現在のカナダのケベックに恒久的な植民地を建設するのに成功した。現在もケベック州でフランス語が話されているのはこのためである。

暗殺へ

 対外的には平和政策を推進した。オランダとスペインの休戦条約などに一役買った。だが、ハプスブルク家に対抗する必要性を感じ、その戦争の準備を進めた。その矢先に、1610年、アンリはカトリックの狂信者に暗殺された。

アンリ4世の暗殺 利用条件はウェブサイトで確認
アンリ4世の暗殺

 アンリ4世は左下の馬車の中で刺されている。なお、画像は暗殺の当時に公刊されたもの。

 死後、偉大なる王としてフランスで認知されることになる。

☆アンリ4世のフランス観光・旅行地:ナント


 アンリ4世に関する歴史情緒溢れる観光地としては、フランスのナントがおすすめだ。上述のように、アンリが宗教戦争を終わらせるためにナントの勅令を発した地である。当時、ナントは王都だった。

 歴史観光の中心はブルターニュ公爵城だ。中世に建造された城で、現在は博物館となっている。ナントの勅令にかんする展示ももちろんある。他にも、黒人奴隷貿易など、その後の時代の展示も多い。フランス史を体感するにはちょうどよい観光スポットの一つといえる。

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アンリ4世と縁のある人物

●アンリ3世:アンリ4世の前のフランス王。アンリ4世とは戦争で敵対することもあれば、同盟をくむこともあった。最後は暗殺された。

●ルイ13世:アンリ4世の息子で、次の王。アンリ4世の死後、混乱に陥ったフランスはどうなっていったのか。

ナントの勅令

ナントの勅令 利用条件はウェブサイトで確認

アンリ4世の肖像画

アンリ4世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

福井憲彦編『フランス史』山川出版社, 2021

森川甫『フランス・プロテスタント : 苦難と栄光の歩み : ユグノー戦争、 ナント勅令、 荒野の教会』西部中会文書委員会, 1999

Mark Greengrass, France in the age of Henri IV : the struggle for stability, Routledge, 2014

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