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ヘンリー7世:チューダー朝の始まり

 ヘンリー7世はイギリスの国王(1457−1509)。在位は1485ー1509。イングランドの内戦の薔薇戦争を終わらせ、チューダー朝を創始し、新たな時代を拓いた。だが陰謀が晩年まで続いたため、王権の確立が生涯の課題となった。コロンブスからインド航海の事業を提案された。これに対するヘンリーの答えとは・・・。

ヘンリー7世(Henry VII)の生涯

 ヘンリーはウェールズのペンブルック城で貴族の家庭に生まれた。父はリッチモンド伯エドマンド・チューダーである。母はマーガレット・ボーフォートであり、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントの曾孫娘だった。父はヘンリーが生誕する前に没した。母はすぐに再婚し、ヘンリーを叔父のペンブルック伯ジャスパー・チューダーに任せた。

 薔薇戦争の終結へ

 ヘンリーが誕生した頃、イギリスでは、ヨーク家とランカスター家が薔薇戦争を行っていた。1471年、ヘンリーが属するランカスター家は敗北した。叔父ジャスパーはヘンリーを伴って、ブルターニュ公国に亡命した。その後、ヨーク家がイギリスで支配を固めていった。

 1483年、ヨーク家のリチャード3世がヨーク家の幼王から王権を簒奪した。このヨーク家の内部分裂により、ヘンリーにチャンスが訪れた。このとき、ヘンリーは王位継承権を持つランカスター家の唯一の生き残りとなっていた。

ヘンリーの性格

 ヘンリーはこのような亡命生活の中で、貧困に苦しみながら育っていた。そのため、用心深く、忍耐強く、秘密主義的になった。刃傷沙汰を嫌い、温和さを好み、気品のある人物として知られた。だが、薔薇戦争の内乱状態やその後の反乱を生き抜くために、容赦ない決断を下すも辞さない人物でもあった。

ボズワースの戦いへ

 ヨーク家では、リチャード3世の王権簒奪に抵抗する党派がリチャードへの反撃のチャンスを狙っていた。ヘンリーはこの党派と手を組んだ。そのために、エドワード4世の長女のエリザベス・オブ・ヨークと婚約した。

 1485年、ついにヘンリーは進軍して、ついにイギリスに上陸した。ボズワースの戦いで勝利し、リチャード3世を敗死させた。

 イギリス王としての即位:チューダー朝の始まり

 同年10月、ヘンリーはイングランド王ヘンリー7世として即位した。まもなく、議会から王位継承を承認された。

反体制派との戦い:エリザベスとの結婚やアーサー王伝説

 ヘンリー7世は王位継承を議会に承認してもらったものの、それに納得しない人々が多く残っていた。そのため、ヘンリーは自身の王権の正統性を強めるために、婚約していたエリザベスと結婚した。さらに、アーサー王伝説を利用した。
 だが、リチャード3世の残党などが反乱を企てた。彼らの多くがヘンリー7世に治世で所領を奪われたのも一因だった。また、今日的に見れば薔薇戦争はヘンリー7世の即位で完結したといえるけれども、当時の人々はまだこのような内乱が続いていると感じていたためでもあった。このような反乱はヘンリーの最晩年まで消え去ることはなかった。そのため、ヘンリーの課題はチューダー朝の確立にあった。

反対派の制圧と対外政策

 反体制派は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とスコットランド国王ジェームズ4世の支援を受けていた。ヘンリーはこれらの国との和平を結ぼうとした。マクシミリアンとは、経済的に重要なパートナーでもあったので、1496年に和約を結ぶのに成功した。スコットランド王とは戦いがさらに長引いたが、1499年に和約に至った。このようにして、国内の反体制派の後ろ盾を切り離した。

星室庁などの利用

 ヘンリーは星室裁判所を設置してこれらの王権の敵を抑え、官僚制を整備して貴族の権力を弱めた。ただし、従来強調されてきたよりも、星室裁判所の役割は小さかったとも評されている。治安判事など、他の制度もこの目的で利用された。
 一連の反乱を鎮圧する過程で、多くの貴族の家系が途絶えた。その結果、枢密院のメンバーにも多くのジェントリが選ばれるようになる。実力主義のチューダー朝になっていった。

 王権の整備

 同時に、ヘンリーは王権の財政基盤の強化に努めた。無理な課税より、王領地の収益の増大を目指した。イギリスの商工業を育成するために、保護政策をとった。同時に、貿易を促進して関税収入を増やそうとした。イギリスの商品をイギリスの船で運ぶ航海法を利用した。租税制度を整備した。かくして、新たな王朝の支配を確立していった。
 外交では平和路線を進めた。できる限り戦争を回避して戦費を抑制する意図もあった。上述のように、スコットランドと神聖ローマ帝国とは和平に至った。だが、当時はフランス王がナポリの王位継承者を自認し、ナポリに進軍した。かくして、イタリア戦争が始まった。ヘンリーは他国とともにフランスの拡張主義に対抗した。その一環で、スペインと同盟を組んだ。息子の(のちの)ヘンリー8世とスペインのキャサリン・オブ・アラゴンの結婚を決めた。

新世界アメリカへの航海事業

 コロンブスがインド航海の事業への出資をヘンリー7世に求めた。だが、ヘンリー7世はこれを断った。コロンブスはその後、スペイン王権の後ろ盾のもとで航海を行い、アメリカに到達する。中南米はスペインの支配下に置かれることになる。そのため、イギリスは大きなチャンスを逃してしまった。
 その後、ヘンリーはカボットらの遠洋航海事業を承認した。これがイギリス初のアメリカ航海となった。だが、スペインと異なり、植民地建設には失敗した。結局、ヘンリー以後もイギリスは長らく新世界進出に失敗し、航海時代に大きく出遅れることになった。

ヘンリー7世の肖像画

ヘンリー7世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

トマス・ペン『冬の王 : ヘンリー七世と黎明のテューダー王朝』陶山昇平訳, 彩流社, 2016

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

Sean Cunningham, Henry VII, Routledge, 2007

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