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ヤン・フス:プラハの宗教改革

 ヤン・フスは現チェコの聖職者(1370 年頃ー1415)。ウィクリフとともに、ルターの宗教改革の先駆者として知られる。プラハ大学で教鞭をとり、学長にもなった。説教師としても活躍し、プラハで教会の改革運動を推進した。だが、カトリックのコンスタンツ公会議で火刑に処された。その理由を簡潔に説明する。

フス(Jan Hus)の生涯

 フスはボヘミアのフシネツで、貧しい農家の家に生まれた。だが、学才に恵まれていたため、1390年にはプラハ大学に入学した。その後、大学教員のキャリアで成功していく。1398年には、プラハ大学の教授に就任した。1401年には哲学部長に、1409年にはついに総長になった。

 説教師としての活躍

 同時に、フスは1402年には、プラハのベツレヘム教会の主席司祭にもなった。おそらく、毎年200回以上は説教を行っていたようだ。大学で一般的に使用されていたラテン語ではなく、チェコ語を用いて説教を行った。プラハの民衆に理解できるようにしたためである。説教師としての活躍が重要となってくる。

 チェコの宗教改革

 一般的に、宗教改革としては、1517年のドイツでのルターの宗教改革が知られている。だが、その先駆者として、イギリスのウィクリフやボヘミアのフスが位置づけられている。

 ウィクリフの教義は1400年頃には徐々にプラハにも浸透していった。フスもまた、聖職者批判や聖書主義などにおいて、ウィクリフの考えを支持するようになった。フスは聖職者批判で次第に人気を獲得し、聴衆に大きな影響を与えるようになった。

民族運動として発展

 その背景として、この時代のプラハの発展が挙げられる。プラハは15世紀なかばにカレル4世のもとで国際都市として発展していった。文化や経済が発展し、ヨーロパの先進地域の仲間入りをした。同時に、教会の組織や財政状況も改善されていった。同時に、聖職者たちは世俗の富や収入を蓄えていった。民衆やフスらはこれを教会の堕落や腐敗とみなしたのである。

 フスの改革運動は同時に、説教がチェコ語で行われていたので、ボヘミアの民族主義的な運動になっていった。フスは聖書を社会の良し悪しの基準とみなし、聖書に基づく社会改革を推進した。

 その際に、世俗当局と協力した。大学改革や教会改革でも、ほかのチェコ人教授とともに、国王や貴族と緊密な関係を築いた。上述のように、フスたちの活動は礼拝堂での説教を媒介として、大学の外部にも影響を与えた。

 民衆たちもまた聖書をチェコ語で読みたいと感じるようになった。フスはチェコ語で様々な宗教文献が公刊されるよう尽力した。ただし、フスが聖書のチェコ語の翻訳あるいは改訂に寄与したのかについては判然としていない。

 このように、大学と教会そしてエリートが連携しあって、民衆を巻き込みながら、チェコの社会と教会の改革運動を推進していった。すなわち、フスの宗教改革は単なる教会や信仰の改革ではなく、社会改革を伴った民族運動となった。そのため、後述のようにフスが処刑された後に、フス戦争が起こることになる。

 フスへの弾圧

 プラハ教会のトップは大司教だった。フスは教会改革のために大司教と協力した時期もあった。だが、プラハ教会は一枚岩ではなく、たとえばウィクリフ主義は一つの争点となっていた。フスはプラハ大司教と1408年には対立するようになっていた。
 教皇アレクサンドル5世がプラハでのウィクリフ主義をめぐる対立に介入した。ウィクリフの著作の没収を命じ、ベツレヘム礼拝堂を含むすべての礼拝堂での説教を禁止した。

 1410年、この命令をプラハ大司教が実施し、その著作の焚書を命じた。フスはこれに反発し、焚書に反対する訴えを教皇に提出した。 これが引き金となり、フスはローマに召喚されることになった。 フスは召喚状にも従わず、破門された。これは撤回された。

双方の応酬

 だが、1412年、フスたちはさらに贖宥状・免罪符の販売を鋭く批判した。これは民衆の絶大な支持を得た。だが、贖宥状は当時のプラハ教会の主な収入源の一つでもあり、大きな反発をうんだ。フスの味方が離れていった。再び破門に処された。それまでフスに好意的だった国王をも敵に回してしまった。
 そこで、フスはついにプラハを離れた。ボヘミアの貴族に匿われた。この時期に、1413年、主著の『教会について』を執筆した。ここに聖書主義がみられる。たとえ教皇が命令したとしても、それが聖書にみられるキリストの命令に明らかに反するなら、それに従うべきでなく、むしろ大胆に抵抗すべきだとフスは論じていた。

 コンスタンツ公会議へ

 この時期、カトリック教会は皇帝ジギスムントの主導のもと、スイスでコンスタンツ公会議を開催していた。主要な議題は、いわゆる教会の大分裂である。教皇を自認する人物が複数いる状態である。

 教皇はカトリック教会のトップであるので、複数いれば教会が分裂を起こすと考えられた。これの解消が一番の議題だった。同時に、これとは別の論点も扱われた。その中に、フスの問題が含まれた。

 1414年、フスは異端視された自身の教義を弁明すべく、コンスタンツ公会議に召喚された。異端視された主張は主に『教会について』に基づいていた。身の安全を保証すべく、神聖ローマ皇帝のジギスムントが彼のために通行・滞在安全証を発行した。フスは身の安全が確保されたと思い、コンスタンツへと旅立った。

公会議の審理

 同年11月、フスはコンスタンツに到着した。1415年から、フスの審理が公会議で始まった。フス自身は当初、公会議で聖職者の腐敗を断罪する説教を行い、参加者の神学者らにたいして自説の正しさを説明するつもりだった。だが、公会議は彼を審理し、必要に応じて裁くつもりだった。
 フスが公会議でまともな審理を受けられてなかったと評されることがある。だが、これは正確ではないというべきだろう。フスの考えはフスの著書や他の人々の証言などによって調べられた。当時の著名な学者のピエール・ダイイやザバレラ枢機卿らがこの調査委員会に加わった。

 敵対者の証言の多くは次第に重要でないとみなされるようになった。フスの主張はリストアップされ、これが本当にフスの理論かをフス自身に尋ねた。フスはその半分ほどを否定したが、半分ほどを認め、その真意を説明した。このようなプロセスが積み重ねられた。

 フスの主張で特に問題視されたのは教会の理論だった。これは専門的すぎるので、簡潔に述べよう。フスは予定説を提示していた。誰が真のキリスト教会のメンバーになるかは、神によって予め定められている。

 重要なのは、既存のカトリック教会はこの真のキリスト教会とは一致しないことだ。よって、教皇であれ、コンスタンツ公会議の出席者であれ、実は真の教会のメンバーではないかもしれない。これは、トップが教皇であれ公会議であれ、既存の教会の体制への根本的な批判となりえた。

異端としての断罪へ

 1415年の半ば、公会議でウィクリフの理論が異端として断罪された。これが決定的となった。フスの理論は最終的に30の主張としてリストアップされ、これがウィクリフ的な異端を含むとされた。フスはその半分ほどが自説ではないと論じた。

 だが、公会議はフスに、その全てを彼自身の説として撤回するよう求めた。さもなければ異端である、と。そのような異端裁判のプロセスをとった。フスは撤回を拒否した。かくして、異端として断罪された。
 ちなみに、この一連の流れは16世紀になって、プロテスタントによって教皇の「騙し討ち」として批判されることになる。皇帝ジギスムント自身はフスの処刑を残念だと思った。とはいえ、事態が処刑に向かう中で、上述の安全証を改宗していた。

 さらに、フスの逮捕にはジギスムントの廷臣が関与していた。ジギスムントは公会議のより大きな目的である大分裂の終結などを優先し、フスの一件を些事とみなしたのだった。

火刑へ

 1415年7月、フスはコンスタンツの郊外で火刑に処せられた。その所持品も焼かれた。その灰や、処刑の杭のまわりの土も掘りとって、川に捨てられた。それらが聖遺物(レリック)としてフス支持者に収集され、フス崇拝に利用されるのを防ぐためである。

その後のフス派:フス戦争へ

 フス派の貴族らはフスの処刑に抗議の声を挙げた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世もそれを支援した。だが、1419年にヴァーツラフが没し、ジギスムントがその王に即位した。フス派はジギスムントにたいし、プラハの四か条を提示した。

 それは説教の自由、フス派とカトリックの聖体拝領・聖餐(フス派はチェコ語を使用)、聖職者の清貧と教会財産の没収、悪名高い罪人の処罰であった。ジギスムントはこれを拒否した。
 かくして、同年、ジギスムントはフス派との戦争に突入した。フス戦争である。教皇はフス派への十字軍を提唱した。だが、フス派は屈しなかった。転機は1431年の教皇との和平交渉だった。フス派は和平の条件について穏健派と急進派で対立が生じた。

 穏健派がカトリックと協力して急進派を戦争で打ち破った。1436年、穏健派とカトリックで和約が成立した。両宗派の聖体拝領や教会用地の没収などが認められた。
 その後、ドイツやオーストリアはルターの宗教改革や宗教戦争の時代に突入する。1618年の30年戦争の際に、カトリックの皇帝軍がボヘミアを占領し、対抗宗教改革というカトリック化を強力に推進していく。その過程で、フス派はカトリックに取り込まれていった。

ヤン・フスと縁のある場所:プラハの旧市街

 フスと縁のある歴史的地域として、プラハの旧市街が挙げられる。プラハの旧市街はかつてのプラハの中心地である。新市街は多くの国立博物館や近代的な建物が建っているのにたいし、旧市街ではプラハの伝統的な街並みが愉しめる。

 旧市街の中でも、ここでは旧市街広場を挙げよう。中世・近世のヨーロッパの典型的な都市では、市庁舎と教会に囲まれた広場が街の中心部だった。旧市街広場はかつてのプラハの中心的な広場だった。

 この広場には、旧市庁舎と主だった教会(ティーン教会とミクラシュ教会)がある。旧市庁舎には、プラハの主な観光スポットの一つの天文時計が現在も時を刻んでいる。そしてなにより、この広場には、フスを記念した銅像が設けられている。これはフスだけの銅像ではなく、フスとその支持者たちで構成されたいわば集団銅像である。フスはただの宗教の改革者ではなく、チェコの国民的英雄として認知されている。

 フスが改革の拠点としたベツレヘム礼拝堂は、旧市街広場から徒歩10分圏内にある。ここもおすすめする。

プラハ旧市街の動画(画像をクリックすると始まります)

 フスと縁のある人物

ウィクリフ:宗教の刷新運動でフスに影響を与えた聖職者。イギリスで同様の運動をしていた。フスとともに、ドイツでのルターの宗教改革の先駆者とみなされている。

フスの肖像画

ヤン・フス 利用条件はウェブサイトで確認
説教するフス

おすすめ参考文献

薩摩秀登『プラハの異端者たち : 中世チェコのフス派にみる宗教改革 』現代書館, 1998

フスト・ゴンサレス『アウグスティヌスから宗教改革前夜まで』 石田学訳, 新教出版社, 2017

Pavel Soukup, Jan Hus : the life and death of a preacher, Purdue University Press, 2020

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