井上馨:外交と財政の元老

 井上馨は明治と大正の政治家(1835―1915)。長州藩出身であり、尊王攘夷の志士から倒幕派として活躍した。明治政府では、日本経済の近代化に尽力した。外務卿として、西洋列強との条約改正を図った。そのために鹿鳴館を利用するなどの欧化政策をとった。だが改正には失敗した。財界との結びつきの強い元老として影響力を行使し続けた。これからみていくように、現在も存続するあの有名企業と深い関わりをもつ。

井上馨(いのうえかおる)の生涯

 井上馨は長州(現在の山口県)で藩士の家庭に生まれた。長州藩で尊王攘夷運動を指導した吉田松陰の松下村塾で学んだ。1855年には江戸に移り、蘭学や砲術を学んだ。

 尊王攘夷運動:馬関戦争へ

 当初、井上は尊攘派の志士として活動した。たとえば、1862年、高杉晋作や伊藤博文らとともに、品川のイギリス公使館を焼き討ちした。

 1863年、井上は伊藤らとともにイギリスに渡った。この経験により、西洋列強の強大さを痛感した。そこで、攘夷ではなく開国を訴えるようになった。だが、この頃、長州藩は攘夷運動に邁進していた。下関を通過する外国船舶に砲撃を仕掛けた。そのため、西欧列強が長州藩を攻撃する計画をたてた。

 1864年、この計画を知り、井上らは急いで帰国した。西洋列強と長州藩の武力衝突を避けようとしたが、失敗した。いわゆる馬関戦争が起こった。長州藩が大敗した。

 倒幕運動

 長州藩は今後の方針をめぐって内部対立が生じた。高杉晋作らがクーデターを起こした際、井上もこれに助太刀した。かくしてクーデターが成功し、長州藩は倒幕運動を推進することになった。

 長州藩は倒幕のために、犬猿の仲だった薩摩藩と同盟を組むことになった。井上は倒幕の準備として、長崎で外国から武器などの購入を進めた。その後、薩長同盟が江戸幕府の打倒に成功した。

 明治政府のもとで:経済の近代化政策

 井上は明治新政府に参加した。当初は判事などをつとめた。1869年、大蔵省の造幣頭となった。大蔵大丞などをかねながら、造幣事業を推進した。1871年には大蔵大輔(おおくらたいふ)となり、政府の財政制度を整備した。また、日本経済の近代化のために、新たな銀行や会社の設立を奨励した。しかし、尾去沢銅山私有事件などを契機に、辞任した。先収会社(三井物産会社の前身)を創立した。

 外交問題への取り組み:外務卿としての条約改正や朝鮮・中国の問題

 1875年、井上は元老院の議官となった。同年、日本は朝鮮での権益を得るために、江華島(こうかとう)事件を起こした。その結果、日朝修好条規が結ばれた。井上はその条約交渉に特命全権副使として参加した。その後、井上はヨーロッパへ視察に旅立った。1878年、井上は帰国し、参議兼工部卿となった。

 1879年、井上は外務卿になった。井上は条約改正に本腰を入れた。1853年のペリー来日以降、日本は西洋列強と不平等条約を結んだ。日本は治外法権を西洋列強に認め、関税自主権を持たなかった。これら二点を同時に改正するのが困難だったため、井上はまず治外法権の撤廃に力を注いだ。

 そのために、井上は欧化政策を導入した。たとえば、1883年に鹿鳴館を建設し、そこで外国の公使らを招いた晩餐会を開いた。だが、これは世間の反発を生んだ。井上は西洋列強と個別にではなくまとめて交渉を繰り返した。1885年、第一次伊藤博文内閣では、井上は外務大臣となった。1888年、交渉内容への国内からの反発が強まったため、井上は外務大臣を辞任した。かくして、条約改正に失敗した。

 内務大臣などの歴任:経済や外交

 その後、井上は政府の要職を歴任した。黒田清隆(くろだきよたか)内閣では農商務大臣を、第二次伊藤内閣では内務大臣を、第三次伊藤内閣の大蔵大臣をつとめた。財界と強く結びつき、殖産興業を推進した。三井と深く結びつき、「三井の番頭」と批判されるほどだった。

 また、井上は朝鮮での権益拡大も図った。しかし、伊藤博文らとその方針をめぐって対立した。

 その後も、井上は元老の一人として影響力を保持した。財界の利害を代弁する役割をもった。1915年に没した。

井上馨の肖像写真

井上馨 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 井上馨と縁のある人物

伊藤博文:井上馨と同じ長州藩であり、明治政府の元老の一人。明治の藩閥政府の中心人物としてともに政治の中心にいた。

おすすめ参考文献

小幡圭祐『井上馨と明治国家建設 : 「大大蔵省」の成立と展開』吉川弘文館, 2018

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