ヨーゼフ2世は神聖ローマ帝国の皇帝(1741ー1790)。在位は1765ー90。ハプスブルク家の出身で、マリア・テレジアの長男。帝国とハプスブルク家の領地で諸改革を試みた。啓蒙専制君主の代表的人物の一人として知られる。
ヨーゼフ2世(Joseph II)の生涯
ヨーゼフ2世はオーストリアのウィーンで神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの長男として生まれた。
1765年、父が没し、ヨーゼフ2世が神聖ローマ皇帝に即位した。だが、母マリア・テレジアが没するまでは、共同統治を行った。
皇帝として:帝国の改革の試み
ヨーゼフはかつての皇帝の権威を回復させようと欲した。同時に、プロイセンとの対立関係の修正を重要とみなした。母マリア・テレジアはプロイセンのフリードリヒ2世と領土争いの戦争を繰り返していた。
だが、ヨーゼフと彼の顧問はプロイセンとオーストリア・ハプスブルク家の対立が帝国にとって有害だと考えた。そのため、両者の融和を模索した。1770年頃がその最も成功した時期だった。
ヨーゼフは帝国で諸改革を実施しようとした。古くから続く帝国の諸制度が機能不全に陥っていると判断したためである。たとえば、帝国の裁判所の改革を試みた。だが、帝国の諸侯はこれに抵抗した。
ヨーゼフの改革が帝国の基本構造の変革につながるとみなされ、敵視されたためだった。そのため、1770年代なかばには、ヨーゼフは帝国の改革への熱意を失っていった。
ポーランド分割
他方で、1760年代、ポーランドは分裂状態に陥っていた。これをプロイセンのフリードリヒ2世が利用した。フリードリヒはヨーゼフ2世やロシアの女帝エカチェリーナ2世と協議した。1772年、ポーランドはこれら三カ国によって分割されることになった。
啓蒙専制君主:ハプスブルク領にて
1780年、マリア・テレジアが没し、ヨーゼフ2世が単独統治を開始した。ヨーゼフの関心は帝国での諸改革からハプスブルク家の領地での諸改革に、啓蒙専制君主と呼ばれるようになる。
1781年、ヨーゼフは寛容令を出し、法の下での宗教的自由を認めた。同年、農奴解放令を出した。その後、貴族の特権を弱め、修道院を解散し、土地制度を改革し、法典編纂を推進した。公衆衛生を整備し、商工業の進行を図った。報道の自由を認め、教育制度を整備し、文化の発展も促進した。
ただし、それらの改革はすべてが順調に遂行されたわけではなく、反発を受けて頓挫したものも少なくなかった。また、報道の自由など、多くの改革は国益に資する限りでのみ認められたにすぎなかった。
バイエルン継承戦争
他方で、帝国では、1777年、バイエルンの支配者が後継者なしに没した。 バイエルンの後継者の規定により、プファルツがバイエルンを継承することになった。
ヨーゼフ2世はバイエルンの土地の一部を自分のものだと主張し ヨーゼフは交渉中だったにもかかわらず、帝国法を破って、バイエルンへの侵攻を開始した。バイエルンはプロイセンのフリードリヒ2世に助けを求めた。
その結果、バイエルン継承戦争が生じた。フリードリヒは帝国法を守るという口実で、バイエルンを支援した。結局、ロシアが仲介したテシェン条約によって、この戦いは終結した。 ヨーゼフはバイエルンの領有の主張を撤回した。
だが、ヨーゼフはバイエルンを諦めていなかった。1784年、プファルツ選帝侯シャルル・テオドールにたいし、オーストリア・ハプスブルクのベルギーと彼のバイエルンとの交換を申し出たのだ。
帝国の対内的不和へ
だが、ヨーゼフはバイエルンを諦めていなかった。1784年、プファルツ選帝侯シャルル・テオドールにたいし、オーストリア・ハプスブルクのベルギーと彼のバイエルンとの交換を申し出たのだ。
だが、この行動はヨーゼフの皇帝としての立場とハプスブルク家の当主としての利害が対立し、後者を優先したと考えられた。ヨーゼフ自身もこの時期に皇帝を退位しようかと本気で悩んだようだ。結局、この交換は実現されなかった。
これ以外にも、ヨーゼフの様々な政策が帝国内部の不和を強めていった。たとえば、教会政策である。帝国では、16世紀初頭のルターの宗教改革以降、プロテスタントとカトリックの諸侯が複雑で錯綜した関係を維持してきた。
ヨーゼフの教会政策はその亀裂や分裂を深める結果となった。1780年代には、帝国はプロイセン派と( 皇帝の)オーストリア派、そしてどちらにも味方しないグループに割れていった。
第二次露土戦争
その頃、ヨーゼフはロシアのエカチェリーナ2世と再び接近した。エカチェリーナは南下政策をとっており、ヨーゼフはトルコへのロシアの進軍を支持した。1787年、第二次露土戦争が始まった。ヨーゼフはロシア側で参戦した。
オーストリア領ネーデルラントとハンガリーは、この戦争をヨーゼフ2世への反乱のチャンスとみた。そのため、1789年、フランス革命と同じ年に、それらの地域でヨーゼフへの反乱が生じた。
1790年、ヨーゼフはこれらの反乱や国内での反動の真っ只中で、有効な対策をとれずに、没した。
ヨーゼフ2世と縁のある人物
・ ・
・ ・
・ ・
ヨーゼフ2世の肖像画
おすすめ参考文献
稲野強『マリア・テレジアとヨーゼフ2世 : ハプスブルク、栄光の立役者』山川出版社, 2014
Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire Volume II The Peace of Westphalia to the Dissolution of the Reich, 1648-1806, Oxford UP, 2011
T.C.W. Blanning, Joseph II, Routledge, 2014