ヤン P. クーン:東インド会社の総督

 ヤン・ピーテルスゾーン・クーンはオランダの東インド会社の第四代総督(1587ー1629)。東インド会社が東アジアの海にまだ勢力を確立していない頃、クーンが現在のインドネシアのジャカルタに拠点となる港湾都市を設立することを決め、バタヴィアを建設した。バタヴィアはそれ以後の東インド会社の本拠地となった。これからみていくように、クーンはオランダ黄金時代との関連で毀誉褒貶の人物となっている。

クーン(Jan P. Coen)の生涯

 クーンはオランダのホールンに生まれた。青年期はローマで商人として修行を積んだ。

 オランダ東インド会社での昇進

 その後、クーンはオランダに戻り、オランダの東インド会社の職員となった。1607年、フェルフーフの船団に下級商人として参加し、インドネシアへ向かった。

 オランダ東インド会社の東アジア貿易の試みは始まったばかりだった。そもそも、この会社は設立されて間もなかった。そのため、会社はまだ東アジア海域での主要な拠点を形成していなかった。

 当面の目的は、東アジアでの香辛料などの独占貿易を達成することである。さらに、東アジアに展開していたスペインやポルトガルの植民地を奪うことだった。というのも、オランダはこの時点では、スペインやポルトガルと戦争状態にあったためである。

 モルッカ諸島をめぐる植民地競争

 東南アジアでの貴重な香辛料の原産地として、インドネシアのモルッカ諸島が特に重要だった。それゆえ、これは香辛諸島とも呼ばれた。ナツメグやクローブなどの希少な香辛料は、当時、この地でしか採取できなかった。主に北部でクローブが、南部でナツメグが採取できた。

 モルッカ諸島は15世紀からイスラム教徒の支配下に置かれた。モルッカ諸島では主にナツメグとクローブだけが採取された。西欧では、ナツメグやクローブは高級な香辛料だった。

 そもそも、この時代の西欧では現代より多くの多様なスパイスを料理で用いていた。胡椒が最も大衆的であり、ナツメグやクローブは上流階級だけが利用できた。後者は粉末にして少量ずつ販売されていた。

 モルッカの島民はマラッカやジャワなどの商人を交易を行い、香辛料を米や綿布などを交換した。これらの香辛料はインドや中国へ運ばれ、一部はさらに地中海へ運ばれた。16世紀初頭にポルトガル人とスペイン人が到来した。

 それ以来、主にポルトガルがモルッカ諸島に拠点を形成し、香辛料の独占貿易を図った。だが、現地のイスラム勢力の一部と敵対関係にあったため、これに成功しなかった。

ナツメグ

 そのような状況下で、17世紀初頭、クーンたちのフェルフーフ船団がモルッカ諸島に到来し、香辛料貿易を行おうとした。だが、先住民と衝突し、フェルフーフら50人が殺害された。クーンは無事だった。

 1610年、存命のクーンたちはオランダに戻ってきた。クーンは東インド会社の重役にたいし、同地での交易を推進する報告書をだした。これが採用され、クーンは上級商人に昇進した。

 1613年、クーンの船団は再びモルッカ諸島へと出発した。クーンはインドネシアでの会社の要職に任じられ、出世していった。

 当時の東南アジアの状況:交易の時代

 この時期、東南アジアはいわゆる交易の時代に入っていた。日本や中国、ヨーロッパやアメリカとの貿易によって、東南アジアの港湾都市の領主たちが一財を成した。彼らはその潤沢な資金で軍事遠征を行った。そのため、戦国時代の日本のように、当時の東南アジアは群雄割拠だった。

 16世紀前半以降、スペインとポルトガルが群雄割拠の一勢力として東南アジアに進出した。ヴァスコ・ダ・ガマやマゼランなどが探検航海に成功した結果だった。そこに、17世紀初頭、オランダとイギリスが加わった。

 当時の東南アジアでは、先住民の領主同士がしばしば敵味方を変えながら戦争していた。そこに、ヨーロッパ勢力が入ってきたわけである。

 17世紀初頭、オランダは上述のようにヨーロッパおよび東アジアにおいて、スペインとポルトガルと敵対関係にあった。イギリスとはより複雑である。端的にいって敵対関係にあるといえる時期もあった。

 だが、イギリス本国とオランダ本国がヨーロッパで密接に結びついた時期もあったので、東アジアでも敵対や競争から同盟関係に至る時期もあった。だが、全体的に少なくともライバル関係にあった。

 東インド会社の成功へ

 クーンは先住民同士の国際情勢を利用しつつ、スペインやポルトガルの拠点を攻撃した。とくに、ポルトガルの拠点奪取に成功して行った。さらに、モルッカ諸島の領主たちにたいして、敵対する先住民領主やポルトガルなどから彼らを守るかわりに、香辛料貿易の独占権などを得る契約を結んだ。もっとも、契約を強いるケースも多々あった。

 1617年、クーンはこれらの活躍を認められ、東インド会社から現地の総督に任じられた。クーンは当初から中国との貿易を目指していた。これに適した場所に、会社の主要拠点を建設しようと考え、候補地を探していた。ついに、インドネシアの現在のジャカルタを候補地として選定した。

バタヴィア建設

 だが、1618年、イギリスと先住民がオランダ東インド会社のジャカルタの要塞を攻撃した。クーンはこの危機を乗り切った。1619年、この地に主要拠点として植民都市バタヴィアを建設した。バタヴィアには、オランダ東インド会社の最上位の植民地政府が置かれることになる。

 1621年、クーンはモルッカ諸島のバンダ諸島を征服した。先住民にたいする大規模な殺戮と奴隷化を伴った。このため、クーンは今日においてオランダ植民地主義の負の遺産の一部として認識されている。

 同時に、長らく、オランダ東インド会社の立役者として英雄視されてきた。17世紀オランダが黄金時代を迎えたのはこれらの海外貿易の利益によるところが大きかった。そのため、クーンはオランダ黄金時代の立役者の一人とされてきたのだ。論争的な人物である。

 1622年、クーンは中国に通商を求めたが拒否されたので、軍事作戦を開始した。だが、失敗した。そのかわりに、台湾にゼーランディア城を建設し、拠点を構築することになった。清が明を中国大陸から追い出すまで、オランダは台湾を拠点として維持することになる。1623年、クーンはオランダへ戻った。

植民地建設の試み

 オランダは東アジアで植民地帝国を築くつもりがなかったと評されることがある。オランダは東インド会社をその海域に派遣して、ただ交易を行うつもりだった、と。しかし、この見方には無理がある。

 その一つの理由は、東インド会社がそもそも今日の商社ような純粋な営利企業ではなかったことである。東インド会社の成員の大部分は兵士だった。クーンらは兵士を用いて特定の商品の独占貿易を実現しようとした。そのために拠点形成を進め、アメとムチで現地有力者を支配したり懐柔したりしようとした。

 クーンはこのような独占貿易の試みに際して、東インド会社の人員不足という問題に悩んでいた。そこで、オランダからバタヴィアに入植者を導入することを会社の重役に提案した。

 スペインやポルトガルと同じような植民地建設の方法である。だが、黄金時代のオランダの人々にとって、開拓途上のバタヴィアは魅力的ではなかった。そのため、移住希望者が集まらず、最終的にこの計画は成功しなかった。

 バタヴィア建設後、クーンは周辺の敵を平定するのに追われた。まだこの時期には、オランダ東インド会社は周辺のイスラム系領主たちと激しい交戦状態にあった。1629年、彼らがバタヴィアを攻略しているときに、クーンは赤痢で没した。

クーンの肖像画

ヤン P クーン 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社, 2017

Adam Clulow(ed.), The Dutch and English East India Companies : diplomacy, trade and violence in early modern Asia, Amsterdam University Press, 2018

Femme S. Gaastra, The Dutch East India Company : expansion and decline, Walburg Pers, 2003

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