ヤコブ・ファン・ヘームスケルク

 ヤコブ・ファン・ヘームスケルクはオランダの探検家で海将(1567ー1607)。1590年代からオランダがインドへの海洋進出を試みた頃に活躍した初期の主要人物の一人。オランダの東アジア交易を成功させた。これからみていくように、彼がその一環で起こした事件は法学などへの思わぬ影響をもたらすことになる。

ヘームスケルク(Jacob van Heemskerck)の生涯

 へームスケルクはアムステルダムで生まれた。彼が探検航海で活躍を始めたのは16世紀末であり、30歳に近づくころだった。

 歴史的背景

 その背景にはヨーロッパの大航海時代があった。15世紀末から、ポルトガルはヴァスコ・ダ・ガマによって東インド航路の開拓に成功し、念願の東インド貿易を開始した。16世紀前半には、インドのゴアや東南アジアのマラッカなど、東アジア海域に重要な拠点を形成し、海洋帝国を構築した。クローブや胡椒などの香辛料貿易で莫大な富を得た。その頃、オランダはまだ独立した国として存在せず、ネーデルラント地域(現在のベネルクス)の一部だった。
 1568年、ネーデルラントの貴族の一部が主君たるスペイン王フェリペ2世に対する反乱を開始した。反乱軍は次第に北部に移った。南部諸州はスペイン王に服従し続けた。その頃、1580年には、フェリペ2世がポルトガルを併合し、ポルトガル王にもなった。そのため、北部諸州はスペインおよびポルトガルと対立するようになっていった。
 なお、北部の反乱諸州は1648年のウェストファリア条約において、オランダとして正式に独立することになる。ヘームスケルクが活躍したのはそれ以前の16世紀末から17世紀初頭であり、この反乱のさなかだった。

 北方航路の探索へ

 まず、ヘームスケルクは中国への新たな航路の開拓に挑んだ。16世紀末には、イギリスやオランダもまたポルトガルやスペインのように海外への拡張を目指した。英蘭の国もまた中国という豊かな市場を目指し、東アジア海域に到達しようと試みた。
 その際に、イギリスやオランダは自国より北側から東アジアに到達するルートを探索した。なぜか。ポルトガルの東インド航路はアフリカを南下して喜望峰を周りインドへたどり着くという南方の航路だった。英蘭はこのルートを選んだ場合に、ポルトガルに航海と交易を妨害される恐れがあった。そのため、別のルートを模索し、北方航路を探索することにした。
 別の理由として、当時のヨーロッパでは北方航路が存在するのではないかと思われたことである。当時のヨーロッパは世界に関する正確な地理情報をもっていなかった。たしかに、ポルトガルがヨーロッパ人としては東アジアの地理情報を率先して収集していた。この情報は他国との貿易競争に勝つために非常に重要なものだった。そのため、ポルトガルはこれを国家機密とし、外部には漏れないよう対策をとっていた。
 その結果、英蘭では利用可能な東アジアの地理情報がいっそう少なかった。そのような状況で、北方航路が存在するのではないかという希望的観測がみられた。もしこれが存在すれば、英蘭からすれば北方航路は中国への近道となった。もちろん、このような航路は実際には存在しないが。
 ヘームスケルクもまた、中国への北東航路の開拓のために探検隊を組織し、オランダを出発した。1596年、スバールバル諸島に到達した。さらに進み、北極地域に突入した。だが、ノヴァヤゼムリャに到達したところで、船が氷の海で閉じ込められた。そこで、一行はこの北極地域で冬を越した。彼らはヨーロッパ人で初めて北極地域で越冬した人々になった。1597年には脱出して、オランダに戻った。 

最初の北極越冬の意義と影響

 ちなみに、ヘームスケルクらの北極越冬の経験はまもなくしてオランダで活かされることになる。ここでは二点述べよう。

 第一に、オランダでは北方での経済・交易事業のために北方会社が設立される。北方会社は北極エリアでの捕鯨やアザラシ・シカなどの皮などを求めて活動するようになる。だが、関連設備をイギリスなどの競争相手から守る必要があった。そのために、1630年代には北方会社の社員を北極エリアで越冬させる計画を立案し、実行していく。その際に、ヘームスケルクの越冬の経験はこの計画を推進する根拠として機能した。

 第二に、オランダの旅行文学への貢献である。彼らの北極越冬から間もなく、この越冬の記録が出版された。ただし、著者はヘームスケルクではない。だが、この越冬記はオランダでの航海日誌に基づく旅行記というジャンルのはしりとして重要になる。北極エリアでの越冬が試みられると同時に、同様の旅行記が出版され、商業的に成功することになる。そこでは、北極の厳しい自然のもとでの窮乏と冒険の物語がみられた。ヘームスケルクたちの越冬はその端緒にもなった。

 東アジア交易の成功

 ヘームスケルクの活躍の場は東アジア海域に移った。16世紀末の時点では、ヨーロッパ人としてはポルトガルが主に海洋帝国を築いていた。スペインはフィリピンに拠点を築いていた。両国はフェリペ2世に服従していた。
 1598年、ヘームスケルクは、ヤコブ・ファン・ネックの船団に同行して、東アジア交易へと出発した。今度は東インド航路を通った。ネックは一通りの任務をこなして、帰国した。だがヘームスケルクはさらにインドネシアのモルッカ諸島に向かった。モルッカ諸島は香辛諸島と呼ばれたように、ナツメグやクローブなどの貴重な香辛料の交易地だった。
 この時点では、ポルトガルがモルッカ諸島に拠点を形成し、交易を行っていた。当初は独占貿易を試みた。だが、イスラム系の現地勢力との対立もあって、必ずしもうまくいっていなかった。そこに、ヘームスケルクの船団が到来したのである。
 ヘームスケルクはテルナテ島やバンダ諸島、アンボンで交易を行い、たくさんの香辛料を入手した。オランダに帰国し、大きな利益をあげた。この成功がオランダ人を沸き立たせた。オランダの東アジア貿易が本格的に始まった。

サンタ・カタリナ号事件

 ヘームスケルクは再び、東アジア海域へ向かって出発した。1603年、シンガポール近くのマラッカ海峡で、ポルトガル商船サンタ・カタリナ号を攻撃し、拿捕した。その積荷を奪って売却し、莫大な利益をあげた。この私掠行為はサンタ・カタリナ号事件として知られる。
 ポルトガルはこの私掠行為を海賊行為として批判した。かの有名なオランダのフーゴー・グロティウスが弁護士として、サンタ・カタリナ号事件でのヘームスケルクの行いを弁護することになった。その際に、この略奪行為はポルトガルにたいするオランダの戦争の一環として正当化された。

 この一件をきっかけに、グロティウスの『海洋自由論』などがうまれることになる。これはスペインやポルトガルに加えて新たにイギリスやオランダなどのヨーロッパ諸国が海洋拡張を試みる時代において、航海や交易の自由について論じたものである。ヨーロッパの植民地主義競争へのオランダの新規参入を擁護するものだった。本書がヨーロッパで論争を呼び、国際法理論の発展に貢献することになる。ヘームスケルクは結果としてその端緒をつくったことになる。

 提督へ

 17世紀初頭、オランダはスペインやポルトガルとの戦争を継続していた。ヘームスケルクはいまやオランダ海軍の司令官に任命された。1607年、ジブラルタル沖の戦いを指揮した。これは当時のスペインとの重要な海戦であり、多くの絵画の主題となるようなものだった。ヘームスケルクはこの戦いでスペイン艦隊に勝利をした。だが、彼自身はこの戦いで戦死した。

ヘームスケルクの肖像画

ヘームスケルク 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社, 2017

Inger Leemans(ed.), Early modern knowledge societies as affective economies, Routledge, 2020

Adam Clulow(ed.), The Dutch and English East India Companies : diplomacy, trade and violence in early modern Asia, Amsterdam University Press, 2018

Femme S. Gaastra, The Dutch East India Company : expansion and decline, Walburg Pers, 2003

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