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木戸孝允/桂小五郎:明治維新三傑の一人

 木戸孝允は19世紀半ば、幕末から明治初期の政治家(1833―1877)。桂小五郎とも呼ばれる。幕末に、長州藩の尊皇攘夷運動から倒幕運動のリーダーとして活躍した。明治維新では、五箇条の御誓文や版籍奉還、廃藩置県や岩倉使節への参加など、明治初期の新体制樹立に貢献した。西郷隆盛や大久保利通と明治維新三傑と呼ばれる。

木戸孝允(きどたかよし)の生涯

 木戸孝允は長州の長門で医者の家庭に生まれた。父は和田昌景で、藩医だった。木戸孝允は7歳の頃に桂家の養子となった。桂小五郎が彼の通称となった。1849年、吉田松陰の門弟となった。
 ちなみに、木戸孝允の「木戸」の姓は、1865年、20代の終わりになって藩主から与えられたものである。それまでは桂小五郎と呼ばれた。

 尊王攘夷運動へ

 1852年、桂は江戸に遊学した。そこでは、蘭学や西洋の軍事技術を学んだ。同時に、斎藤弥九郎に剣術を学び、塾頭に任命されるほどの達人となった。
 1853年、神奈川にアメリカからペリーの艦隊が来航し、開国を迫られた。江戸幕府に激震が走った。1854年には、日本はアメリカと日米和親条約を締結するよう余儀なくされ、開国した。
 この頃、江戸では攘夷運動が活発になった。ペリーなどの外国勢力を排除しようとする運動である。桂は水戸藩や薩摩藩の尊王攘夷派の人々と交流をもった。
 1860年、大老の井伊直弼が外国勢力の開国要求に屈したとして、尊王攘夷派によって暗殺された。尊王攘夷派の活動がさらに活発になっていった。このような流れの中で、桂は長州藩の尊攘運動を本格化させていった。
 桂は高杉晋作や久坂玄瑞とともに、長州藩の尊攘派のリーダーとして認知されていった。同時に、勝海舟や坂本竜馬などの開明派とも交流をもつことになる。

 攘夷運動から倒幕運動へ

 その頃、長州藩では、外国船に大砲を放つなどして、攘夷運動が展開された。これにたいし、1863年、英仏などの外国勢力は長州藩を海から攻撃した。馬関戦争の始まりである。その頃、同年8月の政変が起こる。これにより、長州藩は京都から追い出された。
 1864年、新選組が長州藩や土佐藩の倒幕派を襲う池田屋事件が起こった。桂はこの襲撃を逃れた。その後も京都に潜伏した。池田屋襲撃事件を背景に、長州藩は京都に出兵したが、敗北した(蛤御門の変)。
 慎重派の桂はこの出兵を止めようとしたが、失敗していた。その後、京都での取り締まりは一層厳しくなった。桂は但馬に逃れた。
 同年、幕府は蛤御門の変への報復として、長州に征伐軍を派遣した(第一次長州征伐)。上述の馬関戦争での外国勢力の攻撃が同時に強まった。長州藩は完敗した。
 長州藩では、外国勢力の強さを実感し、攘夷運動より倒幕運動に切り替える勢力がでてきた。高杉晋作らがこれを率い、長州藩での内部争いを起こした。高杉らの倒幕派がこれに勝利し、長州藩の実権を握った。そこで、桂は長州に戻り、倒幕派のリーダーとなった。

 薩長同盟から倒幕へ

 1865年、桂は木戸を名乗るようになる。同年、長州藩の軍制の改革を本格化させた。大村益次郎を軍事部門で抜擢した。
 同時に、木戸は外交でも重要な活躍をみせはじめる。坂本龍馬の仲介により、薩摩藩と接触し始めたのだ。薩摩藩はそれまで幕府の味方をしていた。だが、長州藩と同様に外国勢力に戦争で打ち負かされ、倒幕に向かっていった。
 1866年、木戸は京都の薩摩藩邸に赴いた。薩摩藩士の西郷隆盛と協議し、倒幕のために薩長同盟を締結するのに成功した。その後も、倒幕のための準備を進めた。倒幕派は事を有利に進め、天皇の支持を得て、1868年に倒幕に成功した。このように、木戸は倒幕運動で主導者の一人として活躍した。

 明治維新:五箇条の御誓文

 かくして、明治新政府が樹立された。明治政府の中で、木戸は参与に就任し、新政府に参加した。同年3月、明治新政府は旧幕府軍と戦争中だった。その際に、「五箇条の御誓文」が公布された。木戸はその起草で重要な役割を担った。 
 「五箇条の御誓文」は明治政府の基本方針を示す公文書である。3月14日、明治天皇が天地神明に誓う形でこれを公表した。内容としては、広く会議を開催して、様々な問題を公論で決めること。身分の高い者も低い者も心を一つにして、国がよく治まるようにすることなどが挙げられた。
 木戸は五箇条の御誓文の形成に深く関与した。この原案は1868年1月に由利公正(ゆりきみまさ)が制作した。その後、修正が行われた。さらに、3月、木戸孝允が加筆修正を行った。「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク」という条項を付け加えた。3月14日、明治天皇が儀式のもとで公表した。
 同時に、「国威宣揚の御宸翰」も公表された。これは天皇が自国民に向けた宣言である。木戸が草案をつくったといわれている。ここでは、天皇が再び自ら政治を行うことが宣言されている。現在は、日本の周辺で様々な国が勢力を争っている。このままでは、日本もまた侵略されることになってしまう。そのため、天皇自らがかつてのように政治を執り行う。日本を平和で強固な国にしていく、と。

 版籍奉還と廃藩置県

 さらに、木戸は江戸時代の封建体制を解体して明治の近代的な諸制度を打ち立てるのにも貢献した。1870年には参議となって、版籍奉還と廃藩置県の断行に寄与した。これらを通して、日本の土地と民をかつての幕府から天皇に戻すと公に宣言され、従来の藩から近代的な県の制度へと転換された。かくして、明治政府の新たな制度が基礎づけられていく。

 岩倉使節

 1871年、明治政府は欧米の視察や彼らとの不平等条約の改正のために、岩倉具視が率いる岩倉使節を派遣した。木戸は副使としてこれに参加した。西洋列強の外国の政治や経済などの諸制度を視察した。特に、法制度をつぶさに観察した。

帰国後:征韓論への反対

 1873年、使節は帰国した。留守政府は西郷隆盛らが担当しており、征韓論を唱えていた。木戸は誕生したばかりの明治政府の諸制度の不備を痛感していた。よって、内政の整備を優先しようとした。大久保らとともに、征韓論に反対し、西郷隆盛らが辞任することになった。明治六年の政変である。

 大久保が実権を握るようになると、木戸との意見の相違が目立ってきた。大久保が台湾への出兵を訴えるようになると、木戸はこれに反対して参議を辞任した。

 立憲政治の推進

 上述のように、木戸は欧米視察のさいにも、とくに法制度を担当していた。日本にも西洋列強のような立憲主義的な制度の導入を志すようになる。立憲主義的な制度とは、具体的には議会や憲法である。
 西洋諸国では、長らく、王が主権を握る王政が一般的だった。王が単独で統治する場合、王がいわば暴走して、暴政を行うことがある。よって、王の単独統治に対して、人々は制度的な歯止めをかけようとした。それが、憲法という根本的な法律や貴族らの議会であった。
 憲法は王さえも従わなければならない根本的な法律である。議会は王が課税などの重要な問題に関する法律を制定する際に、議会の同意を得るよう求めていった。

大阪会議から復職へ

 木戸と大久保との対立は、大久保の独断的な政治に起因するところもあった。1875年、伊藤博文の仲介で、木戸は大久保と大阪会議を行った。大久保は木戸に政府への復帰を求めた。これにたいし、木戸は立憲政治の推進を大久保に求めた。たとえば、元老院や大審院、地方官会議の設置である。両者は合意した。木戸は政府に復帰した。
 同年、木戸は第一回の地方官会議を開き、議長をつとめた。政体取調委員にもなり、政体すなわち国の根本的な制度にかんする調査を推進した。このようにして、木戸は開明派として立憲政治の樹立に貢献していく。
 ただし、日本で憲法や国会が導入されるのはさらに10年以上後のことである。スムーズに導入されたわけではなく、板垣退助らの活発な運動が必要となる。

最晩年

 だが、1876年頃には、木戸は病が悪化し、政府の要職を辞した。1877年、西南戦争の最中に病没した。

木戸孝允の肖像写真

木戸孝允 利用条件はウェブサイトで確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 木戸孝允と縁のある人物

●高杉晋作:木戸と同じ長州藩の出身。攘夷運動に熱中していた長州藩を倒幕運動へ向かわせる際に、木戸と協力した。倒幕運動の流れをともに生み出したリーダー。ちなみに、高杉はあの有名な部隊の創設者だった。

●大久保利通:木戸と同じ長州藩の出身で、木戸の少し先輩。西郷や木戸とともに、初期の明治政府を仕切った。

おすすめ参考文献

齊藤紅葉『木戸孝允と幕末・維新』京都大学学術出版会, 2018

一坂太郎『木戸孝允 : 「勤王の志士」の本音と建前』山川出版社, 2010

松尾正人『木戸孝允』吉川弘文館, 2007

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