レオ10世はローマ教皇(1475ー1521 )。在位は 1513ー 21 年。メディチ家の出身で、本名はジョヴァンニ・デ・メディチ。贖宥状の発布でルターの宗教改革を引き起こしたことで知られる。そもそも、贖宥状の発布はイタリア・ルネサンス美術の発展に起因していた。
レオ10世の生涯
レオ10世はイタリアのフィレンツェでロレンツォ・デ・メディチの次男として生まれた。本名はジョヴァンニ・デ・メディチである。メディチ家の子息として、ルネサンスの高い教育を受けた。家庭教師にはピーコ・デッラ・ミランドラが含まれた。
当時の有力貴族の子息と同様に、教会で高位聖職者のキャリアを進むことになった。
教皇としての即位
1513年、ジョヴァンニは教皇レオ10世として即位した。壮麗な即位式をローマで行った。ここでは、レオはローマに黄金時代が再来したのだという意図的なプロパガンダを繰り広げた。その際に、黄金時代の特徴は軍事的勝利ではなく、寛大さや庇護、正義であった。
よって、レオの到来とともに、ローマに平和と正義の時代が到来した。レオは
こう印象付けようとした。自身の肖像を刻んだ記念硬貨をばらまきながら、即位式のパレードに参加した。レオ以降、教皇の即位式の内容が変化することになる。
レオはメディチ家の伝説をローマに伝え、ローマとフィレンツェの古くからの結びつきを強調した。 ローマの執政者たちと教皇庁の対立を前にして、和解を提案した。ただし、レオは中央集権的な圧力のもとで、彼らの特権を急激に縮小させることになるが。
同時に、レオはメディチ家の当主やフィレンツェの支配者としても行動した。
イタリア戦争:フランスとのボローニャの政教協約へ
15世紀末、フランス王シャルル8世がイタリア遠征を行った。ここからイタリア戦争が始まる。その一環として、1513年、フランス王ルイ12世がミラノなどに進軍した。レオ10世はスペインなどと同盟を組んで、これを撃退した。
ちなみに、この時代のローマ教皇は教皇国の世俗君主でもあった。すなわち、王でもあった。当時のイタリアは統一された独立国ではなかった。イタリア半島は主に5つの国に分かれていた。フィレンツェ、ミラノ、ヴェネチア、ナポリ、そして教皇国だった。フランス王と神聖ローマ皇帝がナポリやミラノをめぐって戦争したのがイタリア戦争だった。
1515年、フランソワ1世がフランス王に即位した。フランソワもイタリア遠征を開始した。レオはスペインや神聖ローマ帝国などと同盟を結んで、迎え撃った。だが、今度はフランスが勝利した。
その結果、1516年、教皇庁とフランスはボローニャの政教協約を結ぶことになった。フランス教会にたいする人事権などの大部分を教皇は実質的に放棄し、フランス王に認めることになった。そのかわり、フランスの国事詔書が廃止された。これは公会議主義を支持するものであった。公会議主義は教皇主義と対立したので、教皇はこの廃止を歓迎した。
ボローニャの政教協約がフランス教会とローマ教皇の関係を長らく規定することになる。
贖宥状=免罪符の大量発行
レオ10世はルネサンス文化に精通していた。メディチ家はそもそも、15世紀のコジモ・デ・メディチのように、フィレンツェで芸術のパトロンをながらくつとめていた。メディチ家などの名門貴族が多額の財政的支援をすることで、フィレンツェの多くの公共の建物や教会の建物が新設・増改築された。その結果、フィレンツェがルネサンスの華やかな都市として発展していった。
同様に、レオ10世は莫大な資金を注ぎ込んで、ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂を再建することにした。そのために、すでに有名だったラファエロらが雇われた。この再建の費用や上述のフランスとの戦争などが教皇庁の財政を逼迫させた。
贖宥状の発行に起因するルターの宗教改革
そこで、レオは贖宥状を収入源の一つとして大量発行することにした。この状況をルターが批判し、1517年、いわゆる宗教改革が始まった。
この点をより詳しくみてみよう。レオ10世はすでに財政難であったが、サン・ピエトロ大聖堂の増改築を推進していた。ここで、ドイツのマクデブルクとハルバーシュタットの大司教を兼務したアルベルトという人物が重要である。
1517年にマインツの大司教が亡くなると、アルベルトはその地位をも得ようとした。そのためには、だが、大司教の地位をこれほど兼務するのは教会法違反だった。しかし、教皇が特別な許可を与えれば、許されるとされていた。
そこで、アルベルトはこの地位を得るために、教皇に多額の寄付をおこなうとレオ10世に約束した。レオはこれを承諾した。
アルベルトがこの寄付金の資金源にしようとしたのが、贖宥状だった。レオはアルベルトがそのための特別な免罪符を販売することを許可し、その収益をレオとアルベールで折半することにした。この免罪符をテッツェルという人物が販売し、ルターがそれをみて免罪符批判を開始したのである。
グーテンベルクの印刷革命の影響
もともと贖宥状は大量に発行するのが物理的に難しかった。一枚ずつが丁寧に手紙で書かれていたためである。
だが、グーテンベルクの印刷革命により、贖宥状を短期間で大量に印刷できるようになった。実際に、サン・ピエトロ大聖堂のために、大量に発布された。
ルターへの措置
ルターの「95か条の論題」はすぐに大きな反響を起こした。レオはなんらかの対処を必要とした。レオは当初、ルターの件を、ルターが所属していたアウグスティヌス修道会に委ねようとした。だが、アウグスティヌス会はとくに対応しようとしなかった。
同時に、教皇庁では、ルターへのより厳格な措置を求める声があがった。ドミニコ会のシルヴェステルがルターを異端として批判した。ルターはローマに召喚され、弁明を求められることになる。ルターはザクセン選帝侯フリードリッヒの支援をえるようになる。
皇帝選挙とルターの問題
1519年、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世が没した。そのため、皇帝選挙が行われることになった。立候補者はスペイン王でハプスブルク家のカルロス1世とフランス王のフランソワ1世だった。
レオ10世はフランソワ1世を支援した。当時の皇帝選挙はドイツの7人の選帝侯による投票で決まった。レオは上述のザクセン選帝侯がフランソワに投票するよう望んだ。そのため、ルターにかんしてザクセン選帝侯に圧力をかけないようにした。だが、結局、カルロス1世が選挙に勝利し、皇帝カール5世として即位した。
オスマン帝国への十字軍
他方で、この時期、オスマン帝国がヨーロッパへの進出を本格的に開始した。有名な皇帝スレイマン1世が東欧に攻め込み、ウィーン包囲に至る。レオ10世はルターよりこの問題に関心をもち、十字軍の提唱を行ったほどだった。だが、この提唱はあまり反響をえなかった。
ルターへの破門
皇帝選挙も終わったので、レオはザクセン選帝侯に気兼ねする必要がなくなった。また、ルターの人気はその間にも高まっていった。そこで、レオはついにルターへの厳格な処罰を決めた。
1520年6月、レオはルターにたいして、60日の間に自説を撤回しないなら、破門に処すと宣言した。だが、ルターは撤回しなかった。
この時期、異端者の破門の公布には、その異端者の著書の公開焚書が伴った。ルターの場合も、ドイツで公開焚書が行われた。同年12月、ヴィッテンベルクで公開焚書が行われた。ルターが自ら焚書に応じた。ルターはその行事で、破門状や教会法、教皇の宣告、スコラ神学の著作も公に燃やした。
1521年1月、ルターの異端が確定された。同年、レオ10世は没した。宗教改革はさらに本格化していく。
レオ10世と縁のある人物
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レオ10世の肖像画
おすすめ参考文献
G.バラクロウ『中世教皇史』藤崎衛訳, 八坂書房, 2021
Gianvittorio Signorotto(ed.), Court and politics in papal Rome, 1492-1700, Cambridge University Press, 2011
Rob Sorensen, Martin Luther and the German Reformation, Anthem Press, 2016