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ロヨラ:イエズス会の創設者

 イグナチオ・デ・ロヨラはカトリックの聖職者(1491ー1556)。ザビエルとともに、イエズス会の創設者として知られる。イエズス会は当時の宗教改革においてカトリック教会の対抗宗教改革を牽引した主要勢力と認知されている。よって、ロヨラも対抗宗教改革の主な人物の一人として知られる。ただし、これからみていくように、ロヨラの関心はヨーロッパ以外にも向けられていた。

ロヨラ(Ignacio de Loyola)の生涯

 ロヨラはスペインのバスク地方にあるロヨラで貴族の家庭に生まれた。騎士道と宮廷生活の中で育った。10代なかば頃、ナバラ副王に仕え、軍事や外交で働くことになった。

 兵士から聖職者の道へ

 1521年、フランスはスペインと交戦状態にあった。フランスはナバラ地方の中心地パンプローナを攻略していた。ロヨラはその防衛にあたっていた。劣勢の中で、ロヨラは最後まで抗戦するよう訴えた。だが、彼自身が戦闘中に砲弾を足に受け、重傷となった。

 ロヨラは自宅で療養生活に入った。一時は重篤な状態に陥ったが、快復へ向かった。療養中に、ウォラギネの『黄金伝説』などのキリスト教の聖人伝の書物を読むうちに、宗教的回心を経験した。キリストの騎士として人生を再開しようと決心した。

 1522年、ロヨラは療養生活を終え、巡礼に旅立った。カタルーニャ近郊のマンレサに落ち着き、1年間の修行を行った。この時期に、『霊操』の大部分を執筆した。その後、エルサレムに巡礼した。

勉学と修行と:ザビエルとの出会い

 1524年、ロヨラはスペインに戻り、バルセロナでラテン語などを学んだ。その後、アルカラに移って哲学を学んだ。だが、ロヨラは異端の嫌疑をもたれ、逮捕された。1ヶ月ほど投獄された後、釈放された。修道士のような服装をしないよう命じられた。その後、サラマンカに移り、勉学を続けた。だが、ここでも異端の罪で投獄された。再び無罪として釈放された。

 ロヨラはスペインを離れ、1528年にパリに移った。パリ大学で学び、学位をとった。また、フランドルやイギリスなどにも赴いた。このパリ大学の時期は重要な時期となった。というのも、ザビエルやライネスと出会ったためである。1534年、彼らはパリのモンマルトルで修道士としての誓いを立てた。具体的には、清貧、貞潔、エルサレム巡礼の誓いである。だが、まだイエズス会は創設されなかった。

 その後、ロヨラはボローニャやヴェネツィアで学んだ。1537年、ザビエルたちとヴェネツィアで合流した。ロヨラたちは司祭に叙階された。彼らはエルサレムで宣教活動を行いたかった。そのための準備も進めた。だが、当時はオスマン帝国が地中海地域でヨーロッパ勢力と戦争を行っていたので、エルサレムへの移動が困難だった。そのため、エルサレム巡礼を断念した。イタリアで宣教活動を開始した。

 イエズス会の誕生

 同時に、ロヨラはイエズス会を修道会として整備していった。イエズス会の会憲を定めた。ローマに向かい、教皇から修道会としての認可を得ようとした。だが、ローマでは、一部の高位聖職者たちによって、ロヨラはかつての異端疑惑などについて批判を受けた。ロヨラは教皇パウルス3世と謁見して話し合った。その後、かつての異端疑惑などが実際には無罪だったことを周知した。1540年、イエズス会は教皇パウルス3世によって正式に認可された。イエズス会が公式に誕生した。翌年、ロヨラは初代総長となった。

 ロヨラはイエズス会の体制整備と発展に尽力した。誕生して間もないイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼により、ブラジルや東アジアに宣教師を派遣することになった。そのため、ザビエルが東アジアに旅立ち、1549年に日本で初めてキリスト教の宣教をした。東アジアは誕生して間もないイエズス会の発展に大きく寄与することになる。

ロヨラの問題関心

 ロヨラの存命中に、イエズス会は急速にヨーロッパでも広まっていった。上述のポルトガルやスペインのみならず、フランスにも広まった。さらに、イエズス会はドイツにも拡大した。当時のドイツはルターの宗教改革のさなかにあった。かくして、ルターの宗教改革とロヨラのイエズス会の対抗宗教改革という構図がみてとれる。この構図はすでにロヨラの没する頃には、イエズス会自身において認識されていた。たとえば、イエズス会からすれば、ルターというキリスト教会への害悪が生まれた頃、ロヨラが宗教的回心を経験し、ルターへの解毒剤として成長していった、と。

 だが同時に、ロヨラの没する年に公刊されたロヨラの自伝やイエズス会の会憲には、ルターやルター主義はほとんど言及されていなかった。ロヨラ自身にとって、ルターやルター主義はほとんど問題視されていなかったと言われている。他方で、ルターもまたロヨラを重要視していなかった。ちなみに、ドイツでは、19世紀の著名な歴史学者ランケがルターとロヨラを好んで二項対立として捉え、後のドイツ史学に影響を与えることになる。

 むしろ、ロヨラの関心はイスラム教徒に向いていた。ロヨラはエルサレムに強い関心を抱いており、そこに学院を立てる計画さえ立てていた。また、イスラム教徒を改宗させるために、モリスコ(キリスト教徒に改宗した元イスラム教徒)をイエズス会にいれるよう奨励した。イエズス会士にアラビア語を学ばせて、コーラン批判を展開させようともした。さらに、この時期の皇帝カール5世とオスマン帝国のスレイマン大帝らの戦いを背景に、オスマン帝国への戦争を奨励した。オスマン帝国にたいしてヨーロッパ諸侯の軍隊を一致団結させる計画を立案しようともしていた。もっとも、これは失敗した。

晩年

 その後、ロヨラは会憲を整備し、1550年にこれが完成した。教皇の承認をえた。さらに、ロヨラはイエズス会の教育制度の整備を進めた。ローマでは、ローマ学院とゲルマニア学院を設立した。ドイツやオーストリアなどにも学院を設立していった。教育はそのような道具でもあった。そのかたわら、1548年には自身の『霊操』を公刊した。

 1556年、ロヨラは病没した。1609年には、教皇パウルス5世によって列福された。1622年、イエズス会のローマ学院で学んだ教皇グレゴリウス15世によって、ロヨラはザビエルとともに列聖された。

☆ロヨラのイタリア旅行・観光地:ローマのロヨラ教会

 ロヨラに関する歴史情緒溢れる観光地としては、ローマのロヨラ教会がおすすめだ。ロヨラ教会は1626年に増改築された教会であり、もともとはアヌンツィアータ教会だった。

 ロヨラ教会が位置するエリアには、イエズス会の本拠地であるジェズ教会や、カトリック大学の最高峰たるグレゴリアン大学がある。後者の前身はイエズス会のローマ学院だった。上述のアヌンツィアータ教会はローマ学院の学生が利用していた。だが、学生数の増加で手狭となったので、増改築することになった。上述のように、ロヨラは1622年に列聖されたので、この新たな教会はロヨラに捧げられることになった。

 ちなみに、ジェズ教会とローマ学院は、1585年の天正遣欧使節のローマにおける主な滞在場所となっていた。ロヨラ教会とともに訪れてみたい場所だ。

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 ロヨラと縁のある人物

フランシスコ・ザビエル:日本に最初にキリスト教会を設立したことで有名。ロヨラとともにイエズス会の創設メンバーだった。日本宣教の成功は初期のイエズス会にも大きな影響を与えることになる。

ロヨラの肖像画

ロヨラ 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

Thomas Worcester(ed.), The Cambridge companion to the Jesuits, Cambridge University Press, 2008

François Sureau, Inigo : portrait, Gallimard, 2010

Robert Aleksander Maryks(ed.), A companion to Ignatius of Loyola, Brill, 2014

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