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マゼラン:スペインとポルトガルの海洋帝国

 フェルディナンド・マゼランは16世紀のポルトガル人の探検家(1480ー1521)。コロンブスとともに、大航海時代を代表する探検家として知られる。世界で初めて、世界一周の航海事業を実現した。その偉業達成の以前には、あまり知られていないが、ポルトガル海洋帝国の構築にも貢献していた。そのため、これからみていくように、故郷のポルトガルからは意外な評価が下された。ちなみに、ポルトガル語での名前はマガリャンイスである。

マゼラン(Ferdinand Magellan)の生涯

 マゼランはポルトガルのポルトで下級貴族の家庭に生まれた。ポルトガル王ジョアン2世の妃の小姓をつとめた。

 マゼランは幼少期から様々な教育を受けた。馬術や音楽に親しんだ。さらに、航海学や天文学、地図製作術なども学んだ。これらは航海士に役立つ知識だった。さらに、カトリックの厳格な宗教的な教育を受けた。

ポルトガルの東アジアでの海洋帝国・植民地の構築へ

 周知のように、15世紀末、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが東インド航路を開拓した。その結果、ポルトガルが念願のインド貿易を開始した。ポルトガルはインドに主な拠点を形成すべく、遠征隊を派遣することにした。1505年、フランシスコ・デ・アルメイダがインド副王としてインドに派遣された。マゼランはこの船団に参加し、インドへ向かった。1506年、インドのカリカットで現地人との海戦に勝利した。マゼランはモザンビークへの遠征を経て、帰国した。

 東アジアの海での十字軍と勢力拡大

 この時期、ポルトガルはインドや東南アジアに拠点を形成し、香辛料などの貿易を独占しようと試みた。既にこれらの地域にはイスラム商人などが拠点を形成していた。そこで、ポルトガルは十字軍精神のもとで彼らへの攻撃も開始した。マゼランはこれらの戦いに参加した。

 1509年、マゼランは再び東アジアの海を目指した。マダガスカルやセイロン島を寄りながら、目的地のマラッカに到達した。マラッカは当時の東アジア海域の主要な貿易港の一つだった。そのため、ポルトガルがこの都市を支配下に置きたいと考えたのだった。マゼランはその視察部隊に加わった。だが、現地勢力の攻撃を受け、大きな損失が生じた。それでも、近隣のモルッカ諸島にかんする情報などの成果を得た。

 ポルトガル海洋帝国の基礎づけ:ゴアとマラッカの制圧

 1510年、ポルトガルのインド副王アルブケルケはインドのゴアへの征服を始めた。ゴアを東アジアでのポルトガル帝国の中心地にしようと決めたのだ。マゼランはそれに参加した。彼らはゴアから現地の統治者を追い出し、占領に成功した。

 さらに、1511年、アルブケルケはマラッカの征服も開始した。マゼランは再びこれに参加し、攻略に成功した。これ以降、ゴアとマラッカはポルトガル海洋帝国の主要な拠点となる。これらの活躍により、マゼランは帰国後に昇進した。かくして、マゼランはポルトガルの海洋帝国の基礎づけに貢献した。

 祖国ポルトガルを去る

 1512年、マゼランはポルトガルに帰国した。ポルトガル国王マヌエル1世に謁見し、自身の待遇の改善などを求めた。モルッカ諸島への航海の許可も求めた。だが、これらに失敗した。マゼランはポルトガル王室から不当な扱いを受けていると憤慨した。そのため、祖国を離れることにした。

 マゼランはモルッカ諸島に強い関心を抱いていた。モルッカ諸島は東南アジアでナツメグやクローヴなどの希少な香辛料の採取できる島々である。そのため、香辛料貿易で多額の利潤が見込めた。だが、ポルトガル王室の支援を得てそこに到達する計画はすでに潰えた。そこで、マゼランはスペインの支援を得ようと決心した。

 この頃、スペインは中南米の征服と植民に邁進していた。1492年にコロンブスがアメリカを「発見」した後、スペイン人が金銀財宝や立身出世を夢見てアメリカに到来し始めたのだった。スペイン本国でこれらの事業を統括していたのはセビーリャだった。そのため、セビーリャは16世紀のスペインで最も発展した都市の一つになる。

スペインの探検隊として世界一周へ

 カルロス1世との謁見

 1518年、マゼランはセビーリャに向かった。様々な学者や航海の関係者と知り合い、モルッカ諸島への航海プランについて語った。人脈の構築に成功し、ついにはスペイン国王カルロス1世と謁見することができた。

 マゼランはカルロスに西廻りでモルッカ諸島に航海し、貿易するプランを提示した。すなわち、スペインから大西洋を通ってアメリカ大陸にまず移動し、さらに太平洋を通過してモルッカ諸島に到達するプランである。

 その際に、マゼランはカルロスの懸念を払拭するのにつとめた。その懸念の一つはポルトガルとの関係だった。これまでみてきたように、ポルトガルが東アジアにすでに進出しており、スペインはアメリカに進出していた。両国は植民地競争で対立したため、この競争が戦争に発展しないよう、取り決めを行っていた。それぞれが進出するエリアを決めたのである。概ねアフリカ大陸から東はポルトガルの進出エリアとなり、西はスペインの進出エリアとされた。問題はモルッカ諸島がどちらの進出エリアに属するかである。当然ながら、当時のヨーロッパ人が作成した世界地図は不正確だった。まだまだ正確な地理情報をもっていなかったからである。

 この時期では、アメリカはアジアから東南方向へと張り出した大きな半島だという認識がヨーロッパ人の間でみられた。この時点では、ガンジス川より東のアジアはスペインの進出エリアとされていた。マゼランはモルッカ諸島がスペインのエリアに属するとカルロスを説得した。カルロスはマゼランの計画を承認した。マゼランはこの航海と貿易にかんする様々な特権を授与された。

 ちなみに、カルロス1世はこの時点ではまだ神聖ローマ皇帝に即位しておらず、オスマン帝国との戦争も行っていない。当時、新世界は探検ブームの真っ最中にあったので、航海と貿易プランをカルロスに提示する冒険者は多く存在した。たとえば、アステカ帝国を征服したエルナン・コルテスがその一人だった。マゼランもまたその一人だった。

 マゼランは航海の準備を始めた。5隻の船と240人ほどの船員を集めた。トリニダード号やサン・アントニオ号、コンセプシオン号などである。ちなみに、船員はスペイン人やイタリア人、ポルトガル人などで構成された。この事業にはドイツのフッガー家も出資した。

 マゼラン艦隊の世界一周の始まり

 1519年の夏、マゼラン艦隊はついに出港した。まずブラジルに到着した。マゼランはバルボアがすでに発見した太平洋にたどり着くためのルートを探した。だが航海は容易ではなかった。マゼランたちは不十分な地理情報しかもっていなかったためである。困難に直面し、船員たちが反乱を起こすこともあった。

 それでもマゼランは航海を続けた。1520年の8月には、マゼラン海峡を発見した。太平洋に通じるルートをどうにか見つけ出し、南アメリカ大陸の西岸にたどりついた。マゼランはそこから北上した。当時の航海法として、モルッカ諸島と同じ緯度の高さまで移動し、あとは同じ緯度を保って航海することにした。というのも、当時は経度を正確に測定できなかったが、緯度はそれなりにできたからである。

 太平洋を横断してフィリピンへ

 1520年11月、マゼラン艦隊はすでに2隻失い、3隻で航海していた。食料と水を十分に補給できないまま、太平洋の横断を開始した。3ヶ月の間、大きな嵐に遭遇しなかった。そのため、この海は太平洋と名付けられたとされる(直訳すると「平和な海」)。

 1521年の3月、マゼラン艦隊はグアム島についた。食料などを奪い、出発した。同月、フィリピンのミンダナオ島についた。4月、セブ島に移動した。セプ島では、先住民同士が争っていた。マゼランはこの一件を利用しようとした。先住民グループの一方であるテルナテのスルタンは、スペインの先進的な武器を見て、それを欲しがった。マゼランは彼らにたいして、キリスト教への改宗やスペイン王への服従とスペインの武器の供与を交換条件にして提示した。その結果、800人ほどが改宗した。だが、これを契機に、マゼランは彼らの争いに本格的に関わっていく中で戦死した。

 そのため、マゼラン自身はモルッカ諸島に到達することが出来なかった。ちなみに、マゼランはほかにも黄金島という伝説の島の発見を目的の一つとしていた。

エピソード:なぜ先住民はスペイン王への忠誠を誓ったか?

 上述のように、先住民の一方はマゼランを通してスペイン王への服従を誓った。その理由の一つは、スペイン人の優れた武器を得るためだった。ほかにも、先住民の宗教に基づく理由があった。
 テルナテのスルタンはマゼランとの邂逅を次のように解釈していた。その地域では、彼らの天文的なモデルが世界を理解する枠組みとして機能していた。ここで重要な点として、冬のプレアデス星座は彼らの祖先が星になったものだと考えられた。スペイン船はプレアデス星座の方角からモルッカ諸島に到来したため、彼らの先祖の再来だとみなされた。そのため、スルタンやその臣下たちはスペイン人に服従することにへの抵抗感が薄かったのである。

帰国:モルッカ諸島をへて

 残りの船員たちは当初の目的を達成しようとした。1521年11月、ついにモルッカ諸島のティドーレ島に到着した。クローブやシナモンを購入できた。これらによって、航海の全費用をまかなえた。帰路についた。帰路も困難続きだった。アフリカ大陸の喜望峰を周って帰国できたのは、17名のヨーロッパ人だった。

 世界一周の意義

 これにより、世界で初めて世界一周が達成された。また、従来は世界が球体だと考えられていたが、そのことを実証した。日付変更の必要性が認識された。また、モルッカ諸島をめぐって、ポルトガルがテルナテ島に要塞をつくり、スペインと対立を深めていった。この問題を解決すべく、両国は1529年にサラゴサ条約を締結する。かくして、当面は両国の植民地競争は棲み分けによって解決された。だが、その後もフィリピンをきっかけに、両国の対立は再燃する。このような状況を生み出したため、マゼランはポルトガルではいわば裏切り者として長らく不人気にもなった。

 マゼランと縁のある人物

マヌエル1世:マゼランは仕えたポルトガルの王。ヴァスコ・ダ・ガマが東インド航路を開拓して以来、ポルトガルは黄金時代を迎えていた。その最大の恩恵を得ていた王。海洋貿易の富を注ぎ込んで、リスボンの有名なジェロニモ修道院などを建てた。

カルロス1世:マゼランがポルトガルを去った後に仕えたスペイン王。神聖ローマ帝国の皇帝カール5世でもある。アメリカ大陸征服と同時に、ドイツではルターの宗教改革と対峙した。しかも、オスマン帝国のスレイマン1世とも対峙することになった。

マゼランの肖像画


マゼラン 利用条件はウェブサイトにて

おすすめ参考文献


合田昌史『大航海時代の群像 : エンリケ・ガマ・マゼラン』山川出版社, 2021

伊東章『マゼランと初の世界周航の物語 : 星雲を見た』鳥影社, 2003


Rebecca Stefoff, Ferdinand Magellan and the discovery of the world ocean ,Chelsea House, 1990

Pletcher Kenneth, The Age of Exploration: From Christopher Columbus to Ferdinand Magellan, Britannica Educational Publishing, 2014

Picard, Michel, The Appropriation of Religion in Southeast Asia and Beyond, 2017

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