前島密:明治日本の通信革命

 前島密は幕末から明治に活躍した政治家で過実業家(1835―1919)。幕末には洋学を学んで倒幕を支援した。明治政府のもとでは、近代的な郵便制度を設立し、日本郵便の父となった。鉄道や電話の事業などにも関わった。また、国語改良運動を推進し、漢字の廃止を訴えた。

前島密(まえじまひそか)の生涯

 前島密は越後国(現在の新潟県)で裕福な農民の家庭に生まれた。1847年、13歳のときに江戸に出て医学や蘭学を学んだ。

 1853年、アメリカからペリーの黒船が通商を求めて来日した。1854年には、日米和親条約が締結された。江戸幕府の体制が大きく揺らぎ始めた。前島はこのような事態を知り、日本の将来を案じて、英学や兵学を学んだ。航海や測量なども学んだ。

 1865年、前島は薩摩藩に招かれ、藩校の開成学校で英語を教えた。薩摩藩は当初は攘夷運動を推進していたが、1863年にイギリスとの戦争で敗北し、西洋列強の強大さを知った。そこで、西洋列強に追いつくべく、洋学を推進したところだった。

 明治政府のもとで:郵便事業の創設へ

 1868年の戊辰戦争で、明治新政府が江戸幕府を名実ともに滅ぼした。明治政府は江戸の封建制度を解体し、新制度の確立に邁進し始めた。

 1869年、前島は明治政府に仕えた。従来の飛脚制度に様々な問題を見出し、西洋の近代的な郵便制度の導入を検討した。そこで、1870年、イギリスで調査旅行を行った。1871年に帰国し、駅逓頭(えきていのかみ)になった。

 同年、前島は東京ー京都ー大阪の間で郵便事業を開始した。この際に、前島の発案により、従来の「飛脚」ではなく「郵便」の名称が採用された。また、前島は「切手」の名称も発案し、郵便切手を発行した。1872年、この官営の郵便制度を全国に拡大した。全国均一料金制で政府独占の郵便制度が確立された。前島はその間に駅逓総監になった。

 郵便制度を整備するかたわら、前島は地租改正にも関わった。また、英語教師やイギリス留学の経験のもとで、国語や国字の改良を推進し、漢字を廃止すべきと訴えた。

 自由民権運動の推進

 郵便などの新制度が整備されていった1870年代、板垣退助らが憲法制定や国会開設を求めて自由民権運動を推進した。明治政府の内部でも、これらの問題をめぐって対立が生じた。政府中枢の伊藤博文らは憲法制定などが日本にとっては時期尚早とみていた。だが、政府のスキャンダルが明るみに出て、憲法制定などを約束せざるをえなくなった。1881年、伊藤はこのスキャンダルを大隈重信がリークしたとみなし、彼を辞職させた。

 前島は大隈とともに辞職し、政府から離れた。さらに、1882年、大隈らとともに立憲改進党を結成した。イギリス流の立憲政治の実現を目指した。

 晩年:電話事業の推進

 その後も運輸や通信の事業に関わり続けた。1886年、関西鉄道会社の社長となった。1887年には、大隈が創設した東京専門学校(現在の早稲田大学)の校長をつとめた。1888年、明治政府の逓信次官となり、電話事業の設立に尽力した。その後は故郷の新潟のために北越鉄道会社の社長になり、新潟まで鉄道を通した。

 以上のように、前島は明治時代初期に江戸時代とは大きく異なる通信網を日本全国に設置しようと試みた。

前島密の肖像写真

前島密 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

おすすめ参考文献

山口修『前島密』吉川弘文館、2022

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