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マシュー・ペリー:黒船で始まった日米関係

 マシュー・ペリーは19世紀のアメリカ合衆国の海軍軍人(1794ー1858)。幕末に日本に黒船で到来し、開国させたことで知られる。日本到来前はアメリカ海軍で出世し、米墨戦争などにも従事していた。来日後、ペリーの肖像や行動は浮世絵で描かれた。

ペリーの生涯

 ペリーはアメリカ合衆国のマサチューセッツ州ニューポートで軍人の家庭に生まれた。父は海軍大佐だった。兄弟も海軍の軍人となり、軍人一家の中で育つことになった。よって、ペリー自身も同じ道を志した。

 海軍での活躍

 1809年、ペリーはアメリカの海軍に入隊した。その後、順調に中尉、そして中佐に昇進していた。

 1833年にペリーはニューヨークのブルックリン海軍工廠の造船所長に任命された。ここでは、蒸気船の開発で名声を得ることになる。1837年、アメリカ海軍として初めて蒸気船を建造した(フルトン号)。ほかにも、ミシシッピ号やミズーリ号を建造していった。1841年には、海軍工廠の司令官に任命された。士官教育などにも力を入れ、アメリカ海軍の発展に寄与した。

 1841年には、ペリーは海軍の大佐にも任命された。これは海軍としては最高職であり、父と同じ地位にまで昇りつめたことになる。

 1843年、ペリーはアフリカ艦隊の司令長官に任命され、アフリカへと奴隷貿易対策で派遣された。1846年には、メキシコ湾艦隊の副司令官に任命された。当時の米墨戦争に参加し、戦功をあげた。1847年3月同司令長官に就き軍功を現した。

 幕末の日本へ:日米和親条約の締結

 このような輝かしいキャリアを歩んだ後、1852年、ペリーは東インド艦隊の司令長官に任命された。当時、アメリカは太平洋で捕鯨を行っていたため、薪水などの必需品の補給港を太平洋上に求めていた。ほかの要因も重なり、アメリカは日本との国交樹立や通商などを求めるようになった。ペリーはその任務を課せられた。

 1852年末、ペリーはミシシッピ号に乗って日本へと出発した。中国や沖縄、小笠原諸島をへて、1853年7月、浦賀に到着した。アメリカ大統領フィルモアの国書を渡して、国交樹立などを求めた。だが、幕府側は急な申し出だったので、決定を下すために来年までの猶予を求めた。そこで、ペリーは一旦帰国した。

 ペリーの日本到来にかんして、ペリー自身はただ単に日本と友好関係を樹立するという目的以上の狙いをもっていた。その背景として、ペリーはアメリカのマニフェスト・デスティニー(明白なる運命)を強く信じていた。

 これは、当初は北米の東海岸にしか領土をもっていなかったアメリカ合衆国を西へと拡大させるための精神的な起爆剤となった考えである。ペリーの頃、アメリカ合衆国の領土は北米の西海岸にまで拡大していた。

 ペリーはさらにその先へ、すなわち太平洋へとアメリカ合衆国が拡大するのが当然だと考えた。それは神がアメリカ合衆国に与えた明白なる運命なのだ。そのため、日本との通商関係の樹立は太平洋でのアメリカの商業的、政治的利益を拡大するための第一歩にすぎない、と。

ペリーの浮世絵

ペリーの浮世絵 利用条件はウェブサイトで確認

 1854年、ペリーは軍艦を伴って江戸湾に到来した。日米和親条約の締結に至った。帰り道には、琉球王国と通商条約を結んだ。1855年に帰国した。

 帰国後、アメリカ政府はペリーに日本遠征の報告書をまとめるよう求めた。これは1856年から『ペルー提督日本遠征記』として公刊された。そこでは、遠征の全行程のみならず、日本の習俗などの紹介や周辺海図なども含まれた。

ペリーの肖像

マシュー・ペリー 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

ペリー『ペリー艦隊日本遠征記』 オフィス宮崎訳, 万来舎, 2009

丸山健夫『ペリーとヘボンと横浜開港 : 情報学から見た幕末』臨川書店, 2009

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