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メアリー・スチュワート:宗教改革期のスコットランド女王

 メアリー・スチュワートはスコットランド女王(1542−87)。生まれてすぐに女王に即位した。フランス王と結婚し、フランス王妃になった。だが夫がすぐ没したので、スコットランドに帰国した。プロテスタント諸侯と対立し、内戦の末に、イングランドへ亡命した。だが、これからみていくように、あの事件に関与したので、処刑されることになる。なお、エリザベスとの関係も詳しくみていく。

メアリー(Mary Stuart)の生涯

 メアリーはスコットランド王ジェームズ5世とフランスのギーズ家のメアリーとの間で生まれた。生後まもなく、父が戦争で死んだため、スコットランド女王として即位した。

 メアリーはフランスとスコットランドの協力関係のためにフランス宮廷に送られた。フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスのもとで育てられた。古典語やイタリア語、フランス語などを学び、ルネサンス的な教育を受けた。美貌で有名だった(この記事の後半で、当時の肖像画を掲載)。

 1558年、メアリーはフランス皇太子フランソワと結婚した。1559年、フランソワがフランソワ2世としてフランス王に即位した。よって、メアリーはフランス王妃となった。しかし、1560年、フランソワは馬上槍試合での事故により、急逝してしまった。メアリーは18歳にして未亡人となった。

 スコットランド女王として帰国:宗教改革の嵐の中で

 1561年、メアリーはスコットランドに戻った。スコットランドの政情はかつてと大きく異なっていた。それまでスコットランドはカトリックの国だった。だが、1560年にカルヴァン主義のプロテスタント諸侯が力づくで実権を奪い、スコットランドの宗教改革を成功させていた。メアリーはカトリックとして帰国した。

 メアリーは牧師ノックスなどと対立することになった。それでも、初期の治世は大きな騒乱がなく過ぎた。1565年、メアリーはカトリックで従弟のダーンリ卿と再婚した。この時期から、メアリーの人生は下り坂を転げ落ちていく。ダーンリーとの結婚で、スコットランド国内の勢力図に変化が起きた。そのため、反乱が起きた。

スキャンダルから亡命へ

 1566年、メアリーは王子ジェームズを出産した。だが、メアリーはダーンリーと対立するようになった。メアリーがダーンリーとの離婚を検討していたときに、ダーンリーは暗殺された。暗殺の首謀者はボスウェル伯だと目された。だが、メアリーはボスウェル伯と結婚した。
 メアリー自身がダーンリー暗殺の共犯者であったかどうかについては、議論が割れている。メアリー自身が取り巻きに影響を受けて共犯者となったとか、ボズウェル伯に誘拐されて共犯者にならざるをえなかったとか論じられることもある。あるいは、メアリーがボズウェルへの恋に落ちていたとも。真相はいまだ不明である。
 だが、確かなことは、メアリーが夫の暗殺者と目される男性と結婚したことで、それまでメアリーを支持していたような人物すらメアリーに反対するようになったことである。このスキャンダルも一因となり、1567年、プロテスタントの諸侯や教会が反乱を起こした。メアリーの軍が敗北し、メアリーは幽閉された。スコットランド議会はメアリーに廃位を宣言し、息子をスコットランド王ジェームズ6世として即位させた。この反乱を当時の著名な人文学者でプロテスタントのブキャナンが正当化した。

 イギリス亡命へ

 1568年、メアリーはイギリスに亡命した。イギリス女王はエリザベス1世であり、彼女の従姉妹だった。当初、メアリーはスコットランドでの実権を奪い返すための支援をエリザベスに要望していた。だが、これは認められなかった。そのかわりに、亡命してきた他の君主と同様の待遇を認められた。
 しかし、メアリーの待遇は悪化していった。というのも、1570年代、イギリスはローマ教皇庁などのカトリック勢力との関係を悪化させていったためである。その結果、様々な陰謀がエリザベスにたいして計画され、防がれた。メアリーの関与が疑われることもあった。また、メアリーはかつてイギリスの王位継承権を請求していたこともあったため、警戒されていった。ついに、上述のダーンリーの殺害などの理由で、メアリーは幽閉された。だが、エリザベスはメアリーがなんらかの陰謀に関与したという明確な証拠がない限り、メアリーを処刑するつもりはなかった。

 処刑へ:バビントン陰謀事件

 当時、イギリスはエリザベスの父ヘンリー8世の時代に宗教改革を実行していた。だが、イギリスをカトリックに引き戻そうとする国内外の策謀が渦巻いていた。メアリはそれらに利用された。その一環で、1586年、エリザベスにたいする陰謀事件が企てられた。バビントン陰謀事件である。
 これはエリザベスを殺害して、そのかわりにメアリーをイギリス女王に据えようとする陰謀事件だった。これにメアリーの従者のバビントンが関与し、スペインやローマ教皇庁も関わった。メアリーは1586年7月の手紙で、この陰謀事件への承認を明示した。このことがエリザベス側に知られた。ついに、メアリーが陰謀に関与した決定的証拠が提出されたことになる。
 同年10月から、メアリーの処遇をめぐる裁判が始まった。1587年2月、メアリーはこの陰謀事件への関与により、処刑された。なお、これがスペインとイギリスによるアルマダの海戦の一因となる。

エリザベスの真意はどこに?

 メアリが処刑されたことを聞いて、エリザベスは激怒した。もっとも、エリザベスは刑の執行書に署名をしていた。だが、それが発行されるよう命令はしていなかった。執行書を管理していた責任者は18ヶ月間、投獄されることになった。ほかにも、枢密院の多くのメンバーもまた冷遇されることになった。
 とはいえ、エリザベスの激怒と悲しみが演技のものであるか、それとも本心のものであったかについては、議論が割れている。演技をすべき理由はあった。主な理由の一つはスコットランドとの外交関係である。当時のスコットランド国王はメアリーの息子のジェイムズ6世だった。スコットランドとイギリス(イングランド)は1586年に同盟を結んだ。そのため、エリザベスはメアリーをできるなら処刑したくなかった。だが、バビントン陰謀事件により処刑される可能性がでてきた時点で、エリザベスはジェームズにたいして、その可能性を前提としたやり取りを始めた。処刑後も、エリザベスはこの処刑については自身の身の潔白を 彼に訴えた。このような背景があったのは確かである。とはいえ、従姉妹の処刑への怒りと悲しみは本心のものだったかもしれない。

死後のメアリーのイメージ形成

 メアリーはイギリスのプロテスタント王権に処刑されたカトリックの殉教者として広く認知されるようになる。アルマダなどの際に、カトリックの守護者を自認するスペインなどがそのように喧伝したのが一因である。あるいは、中世ヨーロッパの女性嫌いの伝統に基づき、メアリーは女性であるがゆえに失敗した女王の例としても認知されるようになった。だが、現代においては、別の描き方もでてきた。

 メアリーとエリザベスのその他の関係

 メアリーはエリザベスにたいして、次のような影響を間接的にではあれ与えたともいわれる。当時はイギリス(イングランド)もスコットランドも、複雑な国際関係の中にあった。メアリーもエリザベスも女王として、自国のための政略結婚として、適切な結婚相手を選ぶよう周囲から求められていた。上述のように、メアリーは三回結婚した。だが、エリザベスは生涯未婚だった。その理由としては、従姉妹のメアリーの結婚における過ちと不幸を目の当たりにしたからである。エリザベスはそのために、むしろ処女性を貞節として称賛された。当時イギリスは北米探検に乗り出し、アメリカ東海岸にヴァージニアという地名をつけた。それはエリザベスの処女性にちなんでつけられたものだった。
 別の点として、メアリーの生涯は近年に映画化され、従来とは別の描き方がなされた。16世紀の男性中心主義的な家父長制に対抗する女性のリーダーという描き方だ。このジェンダーの政治にかんする点で、同時期の女王だったエリザベスとメアリーは敵対者というより、その類似点が指摘されるようになった。

 メアリーと縁のある人物

●ジョン・ノックス:スコットランドの神学者。スコットランドに宗教改革を導入した主要人物。宗教的理由などでのイングランドやジュネーヴなどでの長い亡命期間を経て祖国に戻った。メアリーのスコットランドでの命運を理解するには、ノックスについても知る必要がある。
ノックスの記事を読む

●ジョージ・ブキャナン:スコットランドの人文学者で詩人スコットランドでの宗教改革を先導した一人貴族やプロテスタント教会が女王メアリーを廃位するのを正当化した。スコットランド時代のメアリーの命運に関わった重要人物の一人。
ブキャナンの記事を読む

●エリザベス1世はイギリス(イングランド)の女王 。宗教改革の時代に生き、スペインの無敵艦隊アルマダに打ち勝つなどして、国内外での宗教と政治の問題に悪戦苦闘しながらも、イギリスのプロテスタント化を確立した。メアリーの処刑の前後で、エリザベスのイングランドはどのような状況にあったのか。
エリザベスの記事を読む

メアリーの肖像画

メアリー・スチュアート 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

ジェイムズ治美『緋衣の女王 : スコットランドのメアリ』彩流社, 2022

Anka Muhlstein, Elizabeth I and Mary Stuart: The Perils of Marriage, Haus Pub, 2007

Elizabeth Tunstall, The Succession Debate and Contested Authority in Elizabethan England, 1558-1603, Springer, 2024

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