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メランヒトン:ドイツ宗教改革

 フィリップ・メランヒトンはドイツの神学者(1497ー1560)。宗教改革の代表的人物の一人。ドイツでルターの良きパートナーとして、彼の活動を実践面で支えた。アウグスブルク信仰告白でルター派諸侯の信仰を定式化し、社会的にも影響力をもった。

メランヒトン(Philip Melanchthon)の生涯

 メランヒトンはドイツのバーデンで生まれた。本名はフィリップ・シュヴァルツェルトである。

 メランヒトンの叔父は有名な人文学者のロイヒリンだった。メランヒトンは彼から古典古代の学問や言語を学んだ。メランヒトンは名前をドイツ語のシュヴァルツェルトからギリシャ語のメランヒトンに変えた。どちらも「黒い土」という意味合いである。

 人文主義学者としての始まり:ギリシャ語

 1509年から、メランヒトンはハイデルベルク大学 とチュービンゲン大学で学んだ。1518年、ロイヒリンの仲介により、チュービンゲン大学からウィッテンベルク大学に移った。そこでは、初代のギリシア語の教授に就任した。

 メランヒトンはギリシャ語や古典を講義し、『ギリシャ語の基礎』などを出版した。すぐに名声を得るようになり、オランダの人文主義者のエラスムスからも称賛された。

 宗教改革者としての活躍:ルターの盟友として

 ルターは1517年にヴィッテンベルクで宗教改革を開始した。そこに、メランヒトンは上述のように到来した。メランヒトンはルターから影響を受け、ともに宗教改革の主導者となっていった。

 たとえば、1521年には、ルター主義の神学を初めて体系的に論じた『神学総論』を出版した。ルターとともに、ローマ教皇主義の批判に反論し、教皇至上主義を批判した。カトリック神学の基礎となっていたアリストテレス哲学への批判も行った。

ルター主義の立場

 同時に、メランヒトンはルター主義的な立場を示した。たとえば、律法と福音、罪と恩寵の重要性を強調した。
 メランヒトンはルターと同様に「聖書のみ」の立場をとった。さらに、万人司祭説も支持した。よって、すべての人が聖書を読むべきだと論じた。

 人文主義的な性格

 メランヒトンは聖書の解釈において、人文主義的な素養を必要なものとして提示した。すなわち、古典古代の言語、修辞学そして弁証法を習得することが求められた。これらに基づくことで、聖書を正しく解釈できると論じた。
 とはいえ、実際には、メランヒトンはルター主義的な教義にあうような仕方で聖書を解釈した。たとえば、メランヒトンが聖書の主題として挙げたものは、ルター主義の教義の主題であった。

教育の改革

 メランヒトンはドイツの学校と大学の教育改革で大きな影響力をもつことになる。「ドイツの教師」と呼ばれるようになったほどである。
 その際に、古典古代の言語、修辞学、弁証法を学校のカリキュラムに組み込んだ。これはメランヒトンの人文主義的性格を表す。同時に、上述のように、宗教改革者としての性格も表すものだった。

 ツヴィングリとの協力の模索

 1520年代、スイスではツヴィングリが宗教改革を開始した。ルターとメランヒトンはカトリックに対抗するうえで、ツヴィングリとの協力を模索した。彼らは会合を開くなどした。だが、聖餐にかんする理解で対立するなどして、結局うまくいかなかった。
 その後、ルターとメランヒトンはツヴィングリらと、聖餐をめぐる論争で激しく対立するようになった。メランヒトン自身も、1529年の著作でルターを擁護した。それがツヴィングリ派による批判をさらに招いた。

 アウグスブルクの信仰告白

 1530年、メランヒトンはドイツ宗教改革で重要なアウグスブルクの信仰告白を編纂した。これについて、少し詳しくみてみよう。

背景

 1520年代後半、オスマン帝国のスレイマン1世はヨーロッパ征服を本格化した。1529年には第一次ウィーン包囲を行い、神聖ローマ皇帝のカール5世との戦いを激化させた。
 カール5世はその脅威に一致団結して対抗するために、帝国内の宗教的な不和を克服しようとした。そのために、1530年に、アウクスブルクでの会議を招集した。なお、カール自身はルター主義を異端として断罪し、カトリックの守護者を自認していた。
 ルターを庇護してきたザクセン選帝侯はヴィッテンベルクの神学者たちに、自分たちの信仰と宗教的実践を神学的根拠に基づいて正当化するような信仰告白を作成するよう依頼した。

特徴

 メランヒトンがこの「アウグスブルク信仰告白」を編纂した。その際に、かつて作成されていたシュヴァーバッハ条項をもとにして、ルターの信仰告白なども参考にして、作成した。メランヒトンがルターと連絡を取り合いながら、加筆修正も行った。
 その内容は、ルター主義の信仰箇条と、それが聖書や教会の教えに反していないことを正当化する箇条で構成されていた。
 アウグスブルクの信仰告白はプロテスタントの中でも再洗礼派を異端として断罪した。義認や自由意志などの教義では、自身の立場を示した。ミサや教皇の地位のような、プロテスタントが標的としてきたカトリックの教義はあまり攻撃されなかった。
 アウグスブルクの信仰告白はルター主義を立場を明確にした神学的マニフェストというよりも、その立場が聖書に反していないことをアピールする文書だった。というのも、このルター主義の立場をカール5世に認めてもらうために作成したものだったからである。

シュマルカルデン同盟へ

 しかし、同年夏、カールはこの信仰告白を認めないと宣言した。メランヒトンが反論を準備した。だが、カールに拒否された。議会は休会となった。
 その結果、1531年、プロテスタント諸侯は同年末にプロテスタント同盟としてシュマルカルデン同盟を結成した。帝国内での宗教的対立がより深まっていった。
 同年、メランヒトンは『弁明書』を公刊し、アウグスブルク信仰告白を擁護した。1537年には、シュマルカルデン同盟はアウグスブルク信仰告白と『弁明書』を採択した。これらを自身のプロテスタントの信仰の公式な基本文書に選んだのである。

 晩年

 晩年には、メランヒトンはルターと神学の側面で異なる主張も目立ってきた。だが、両者は終生対立することはなかった。

 また、1540年代に帝国内でシュマルカルデン同盟が劣勢に陥った際に、メランヒトンは同盟の危機を和らげようとした。そのために、カトリックの教義と妥協的な主張を提示した。その結果、プロテスタント勢力からも強く批判されるようになった。

 メランヒトンと縁のある人物

●ルター:ドイツ宗教改革の始まり。95か条の命題でカトリックを批判し、その口火をきった。メランヒトンと友好関係にあったエラスムスとも論争を繰り広げた。ルター思想の特徴も説明する。
ルターの記事をよむ

●カール5世:神聖ローマ皇帝。スペイン王でもあった。カトリックの守護者を自認し、ルター派を異端として弾圧した。同時に、オスマン帝国やフランスなどとも戦争した。よって、ドイツ宗教改革はカール5世を取り巻く国際状況を理解しなければ、よく理解できない。
カールの記事をよむ

メランヒトンの肖像画

メランヒトン 利用条件はウェブサイトで確認

画像は1550年代のもの。

おすすめ参考文献

菱刈晃夫『メランヒトンの人間学と教育思想 : 研究と翻訳』成文堂, 2018

Irene Dingel, Philip Melanchthon : theologian in classroom, confession, and controversy, Vandenhoeck & Ruprecht, 2012

David Bagchi(ed.), The Cambridge companion to Reformation theology, Cambridge University Press, 2004

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