メンノー:オランダの再洗礼派

 メンノー・シモンズはオランダの神学者 (1496ー1561)。オランダ(ネーデルラント)で再洗礼派という宗派を主導した。ドイツ宗教戦争などを背景に、再洗礼派が分裂する中で、メンノー主義を形成した。これは平和主義で知られる。

メンノー(Menno Simons)の生涯

 メンノーは現オランダ北部のフリースラントで農民の家庭に生まれた。聖職者の道を志し、修道院の学校に通った。1524年、司祭に叙階された。よって、当初はカトリックの聖職者だった。

 再洗礼派へ

 メンノーが司祭として活動を始めた頃、既にルターが宗教改革を開始し、ドイツやネーデルラントにも影響を与え始めていた。メンノーはプロテスタントのように聖書研究を行うようになった。さらに、カトリックの化体説のような教義に疑問を抱くようになった。

 同様に、メンノーは幼児洗礼にも疑問を抱くようになった。洗礼は、人がキリスト教会に入るための宗教儀式である。当時は、生まれて間もない頃に、洗礼の儀式が行われた。
 これにたいし、メンノーは聖書研究を通して、イエス・キリストへのしっかりした信仰をもつ人だけが教会に入る資格をもつと考えるに至った。よって、幼児への洗礼に反対の立場を取るようになった。
 この頃、プロテスタントの中では、このような幼児洗礼に反対する勢力として、再洗礼派と呼ばれるグループが組織化されていった。メンノーもそこに属した。

 再洗礼派と戦争

 ドイツでは、宗教改革が開始されて10年もたたないうちに、それをきっかけとして農民戦争が起こった。その際に、急進主義的な再洗礼派の神学者ミュンツァーが主導者となった。農民戦争はすぐに鎮圧され、ミュンツァーも処刑された。これにより、再洗礼派は反乱の徒だというイメージが広まった。
 なお、ルターは農民戦争に反対し、ミュンツァーを反逆者だと断じた。ルター派もまた再洗礼派のような反乱の徒だと思われるのを避けようとしたのも一因である。このように、ルター派は当初から再洗礼派と対立する傾向にあった。

 1534年、再洗礼派はドイツのミュンスターを支配するようになった。ミュンスターは皇帝軍と戦闘を開始することになった。ミュンスターの再洗礼派は各地からの援軍を待っていた。だが、結局、この反乱もまた鎮圧された。なお、彼らに対する攻撃で、メンノーの近親者が没したようだ。

 ネーデルラントの再洗礼派

 1530年頃には、ネーデルラント(現在のオランダやベルギー)に再洗礼派が到来した。再洗礼派は当時普及していた教会嫌いと結びついた。さらに、終末論でのあの世への期待が、現世での苦しい生活ゆえにその受容を一層促進し た。

 当時、ネーデルラントは神聖ローマ皇帝のカール5世の支配下にあった。カールはルター派のみならず再洗礼派を禁止した。
 再洗礼派は上述のような反乱を起こしていたので、異端審問で厳しい取り締まりの対象になった。しかも、ミュンスターの反乱の際には、再洗礼派がアムステルダムで同様に反乱を起こした。これは鎮圧され、実行者は処刑された。

 メンノー主義:平和主義

 ネーデルラントの再洗礼派は大別すると二つのグループに分裂していいく。理想主義の少数派と平和主義の多数派である。後者はさらに文化していく。その中でも、メンノーを指導者とするメンノー主義が重要だった。

 1537年、メンノーは『新生』を公刊した。そこでは、カトリックの教義を批判した。幼児洗礼や煉獄、改悛、修道会などは神ではなく人間に由来する教義だ、と。
 さらに特徴的なのは、メンノーの平和主義である。再洗礼派が厳しい弾圧を受ける中で、メンノーは武闘派の再洗礼派とは一線を画した。徹底した平和主義を訴えることで、世俗当局に迫害をやめてもらおうという方針を選んだ。
 メンノーはキリストの真の信仰を受けた者が新たに生まれ変わるという。この新生した者は平和の子なので、迫害を受けても剣で応戦しない。むしろ、真のキリスト教徒は迫害を受けるものだ。キリストや使徒たちがそうだったように、と。

 だが、メンノーは世俗当局には信用されなかった。そのため、皇帝カール5世によって、賞金首となった。ネーデルラントでは、再洗礼派はひきつづき厳しい迫害の対象となった。

 平和主義を貫く

 だが、メンノーは諦めなかった。著述活動を行いながら、各地を歴訪し、他の宗派の人々と討論した。教義の説明を行い、メンノー派には世俗当局との敵対の意思がないことを述べ続けた。

 たとえば、メンノーは1552年に『執政者への嘆願』を公刊した。メンノーは自分たちが洗礼についてミュンスターの再洗礼派と一致すると認める。だが、彼らが聖書に反して新しい王国をこの世につくろうとしたのは犯罪だと断じる。

 メンノー主義者はミュンスター派とはこの点で根本的に異なる。だが、キリスト教の真理のために迫害を受けている。よって、執政者(政府)にたいして、敬虔で平和な生活を与えるよう嘆願する、と。

 他のプロテスタントとの対立

 同時に、メンノーは他の聖職者や神学者たちとも対立した。上述のように、再洗礼派はカトリックだけでなくプロテスタントとも対立していた。メンノーからすれば、メンノー主義者が迫害を受けるのは、これらの聖職者に一因があった。
 メンノーからすれば、再洗礼派はひとまとめにされている。武闘派も平和派もひとまとめにされる。再洗礼派は領土欲があるとか、暴動を唆すとか、執政者への服従を拒否する輩である、と。
 だが、これは讒訴である。神の命令に反しない執政者には、従う。しかし、彼らは哀れな我々を助けず、むしろ火に油をそそぐ。信仰を圧制で処分せよ、と。これはカトリックが長らく行ってきたことだ。主のしもべを自認するなら、迫害するな。
 このように、メンノーは平和主義を訴えることで、メンノー主義者への迫害を終わらせ、平和裏に宗教的実践を認めてもらおうと活動した。

 メンノーと縁のある人物

●ミュンツァー
→ドイツ宗教改革での再洗礼派の神学者。宗教改革の初期に、カトリックのみならずルターや、ルターを庇護したザクセン選帝侯とも対立した。ドイツ農民戦争を主導し、武闘派の再洗礼派を率いた。その後の再洗礼派に大きな影響を与えた人物
ミュンツァーの記事をよむ

●カール5世
→神聖ローマ皇帝であり、スペイン王でもあった。ネーデルラントの支配者でもあった。ドイツやネーデルラントでは宗教改革に取り組む一方で、オスマン帝国との対決や新世界アメリカでのアステカ・インカ帝国の征服などを同時に進めた。
カール5世の記事をよむ

メンノーの肖像画

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おすすめ参考文献

桜田美津夫『物語オランダの歴史』中央公論新社, 2017

John D. Roth(ed.), A companion to Anabaptism and spiritualism, 1521-1700, Brill, 2007

Gerald R. Brunk(ed.), Menno Simons : a reappraisal : essays, Eastern Mennonite College, 1992

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