ポール・セザンヌ:近代絵画の源流

 ポール・セザンヌはフランスの画家(1839ー1906) 。ポスト印象派の代表的な人物として知られる。生前にはほとんど高い評価を得られなかった。だが、20世紀の画家たちに根本的な影響をあたえた。よって、近代絵画の父と評されることもある。以下、代表作の「カード遊びをする人々」や「 サント・ヴィクトワール山」、『セザンヌ夫人』などの絵画の画像を示しながら、みていこう。

セザンヌの生涯

 ポール・セザンヌ(Paul Cézanne)はフランスのエクサンプロヴァンスで銀行家の家庭に生まれた。地元のブルボン学院で古典を学んだ。その頃に、エミール・ゾラと親しくなった。 当初は、父の意向で、法律家の道を進んだ。バカロレアに合格し、法学部に入学した。だが、この頃には絵画への関心が強くなっていた。ついに、画家の道を目指そうと決心し、大学を中退した。

画家としての開花

 1861年、セザンヌは旧友のエミール・ゾラに誘われ、パリに移った。美術学校に入ろうとしたが、試験に落ちた。個人のアトリエで働き、ルーブル美術館に通って、絵を勉強した。この時期は宗教画や風景画などを描いた。

 セザンヌは後の印象派の巨匠となるルノワールドガマネモネなどと知り合い、交流をもった。また、巨匠ドラクロワらの作品に大いに刺激を受けた。印象派の技法を学ぶために、1872年にはカミーユ・ピサロのもとで活動した。1873年には、フィンセント・ファン・ゴッホとともに働いた。パレットやトーン、筆致に工夫をこらし、構成も洗練させていった。

この頃描いた肖像画

印象派の個展への参加

 1874年、モネが中心となって、印象派の第一回個展が開催された。セザンヌはこれに参加し、三点の作品を出品した。1877年の際にも出品した。だが、セザンヌの作品は好評を得ることができなかった。そもそも、印象派自体が美術評論家に嘲笑され、悪戦苦闘していた。ゾラなどが印象派を擁護することになるが、まだまだ少数派だった。そのため、セザンヌは印象派の個展から遠ざかるようになった。

この頃描いた静物画

 1880年代、セザンヌは印象派の画家たちとは交流を続けながら、次第に独自の道を発展させるようになった。ジャンルとしては、風景画、静物画、肖像画が主になった。風景は抽象性が高まり、幾何学の図形を登場させる試みもした。肖像画では、「セザンヌ夫人」や「カード遊びをする人々」が有名である。

セザンヌ夫人

『カード遊びをする人々』

『カード遊びをする人々』 利用条件はウェブサイトで確認

 セザンヌは遠近法を色彩で表現するなど、独自の試みを続けた。風景画では、幼少期から親しんだ「サント・ヴィクトワール山」が有名である。実際には、80点以上もある一連の絵画を指す。セザンヌはプロヴァンス地方で絵画を描いていた。当時住んでいた家のすぐ近くに、サント・ヴィクトワール山がそびえていた。標高は1kmほどの長い山で、石灰岩の山肌をみせている。

『サント・ヴィクトワール山』

サント・ヴィクトワール山 利用条件はウェブサイトで確認

セザンヌは生前にはほとんど高い評価を得られないまま、1906年に没した。だが、死後に、セザンヌの絵画はキュビズムなどの新たな世代に大きな影響を与え、近代絵画の原動力となる。

サント・ヴィクトワール山とエクサンプロヴァンスの風景

セザンヌの故郷エクサンプロヴァンスと近隣のサント・ヴィクトワール山

セザンヌの自画像

ポール・セザンヌ 利用条件はウェブサイトにて

 セザンヌと縁のある人物

エミール・ゾラ:セザンヌとは学生時代からの親友。ゾラは19世紀フランスを代表する文学者として活躍した。美術批評のみならず、政治問題にも積極的に意見した。その結果・・・。

セザンヌの代表的な作品

『トランプをする男たち』(1890ー92)
『大水浴図』(1898ー1905)

おすすめ参考文献

永井隆則編『セザンヌ–近代絵画の父、とは何か?』三元社, 2019

永井隆則『絵画における真実 : 近代化社会に対するセザンヌの実践の意味』三元社, 2022
Carol Armstrong, Cézanne’s gravity, Yale University Press, 2018

タイトルとURLをコピーしました