リシュリュー:フランス絶対王政への道筋

 リシュリューはフランスの政治家で枢機卿(1585ー1642)。当初は聖職者の道を進んだ。フランス王太后で摂政のマリー・ド・メディシスに見出され、王権の中枢に入った。マリーと国王ルイ13世を和解させ、ルイの信用を得た。宰相として、国内のユグノー問題や、30年戦争でのハプスブルク家との対決で活躍した。リシュリューの生涯と功績を知ることで、17世紀前半にフランスがいかに絶対王政の道を進み、あるいは頓挫したかを知ることができる。

リシュリューの生涯

 リシュリューはフランスのパリで貴族の家に生まれた。本名はアルマン・ジャン・デュ・プレッシー。一家はフランス西部のポアトゥー地方に領地を持っていた。父が早くに没した。一家は経済的に不安定になった。経済的安定を図るなどのために、リシュリューは聖職者の道に進むことになった。

 聖職者としてのスタート

 リシュリューは聖職者になるための勉強を終えた。そこで、司教になりたいところだった。だが、司教としての叙任を受けられる年齢に達していなかった。それでも司教に叙任される特別な許可を教皇から得るために、ローマへ赴いた。教皇パウルス5世は彼の才能を認め、許可を与えた。その結果、1607年、リシュリューはポアトゥー地方のリュソン司教となった。

 当時のフランスは、16世紀後半の宗教戦争の余波が色濃く残っていた。16世紀末に、フランス王アンリ4世がナントの勅令を出すことで、宗教戦争は一応終わった。だが、カトリックとプロテスタントの対立が完全に消え去ったわけではなかった。

 リシュリューの教区にはプロテスタントが比較的多かった。そのような中で、リシュリューは熱心にカトリック教会を擁護した。教皇に特別な許可を得たということもあり、トリエント公会議のプログラムを司教として実践した。彼はこのプログラムをフランスで最初に導入した司教だった。カトリックの聖職者を改革し、プロテスタントを異端とみなして撲滅し、カトリック教会の規律と権威を再確立しようとしたのである。

 政治の世界へ:王母マリー・ド・メディシスへの接近

 1610年、フランス王アンリ4世が暗殺された。フランスは再びユグノー戦争のような混沌に戻るおそれがあった。後継者の国王ルイ13世はまだ子供であり、母のマリー・ド・メディシスが摂政となった。彼女はローマ教皇庁との連携を図った。これが国内で対立を激化させた。

 そのような中で、1614年、パリで全国三部会が開かれた。リシュリューはポァトゥー聖職者の代表としてこれに出席した。三部会は聖職者身分と貴族身分とブルジョワの三身分で構成されていた。リシュリューは紛糾するこの会議で調停役として活躍した。そのため、リシュリューは摂政マリーから一目置かれるようになった。1616年には、国務卿に任命された。外交などに関わった。

 だが、この頃、摂政マリーとルイ13世の勢力争いが激しくなってきた。1617年、マリー派がついに宮廷から追放されることになった。その際に、リシュリューはマリーに随行し、パリを去った。

 政治的中枢へ:宰相リシュリュー

 だが、1620年、リシュリューの仲介努力もあいまって、マリーとルイ13世は和解に至った。マリーは彼の努力に報いるべく、1622年、教皇庁から枢機卿の地位をリシュリューのために獲得した。ルイもまたリシュリューを信用するようになった。1624年には、リシュリューは国務会議のメンバーに選ばれ、事実として宰相の地位をえた。

 ユグノーとの対決

 リシュリューはフランス王権の伸長と確立を国内外で目指した。その際に、まずプロテスタントのユグノー勢力を障害とみなした。国内では、ユグノー勢力が再び脅威と目されるほど活発化していた。さらに、イギリスのプロテスタントと連携してフランス王権を攻撃する動きを見せ始めた。そこで、1627年、リシュリューはユグノーの最大拠点だったラ・ロシェルの攻略を開始し、1628年に陥落させた。

 リシュリューの発案により、1629年、「アレスの勅令」が公布された。これにより、ユグノーには信仰の自由を認められた。フランス王権はユグノーを迫害しないというメッセージを国外のプロテスタントに送ったのである。同時に、ユグノーの政治的・軍事的な特権を奪った。そうすることで、ユグノーを政治勢力として無力化しようとした。これには概ね成功した。ユグノー諸侯は政治勢力として弱体化の一途をたどることになる。

 マリー派の追放

 さらに、リシュリューはかつて自身を引き上げたマリーにも敵対するようになった。マリーの親ハプスブルク的で親ローマ教皇庁の政策がフランスの国益にそぐわないと思われたためだった。たとえば、リシュリューはフランスの国益追求のために、イタリア北部でスペインとの戦争をルイに提案し、遂行していた。だが、マリー派はこれに反対した。リシュリュー失脚の陰謀を試みた。1630年、マリー派は陰謀に失敗した。ルイは最終的にリシュリューを選んだのである。ついにマリーは国外追放となった。

 ハプスブルク家との対決:30年戦争へ

 対外的には、リシュリューはハプスブルク家に脅威を感じていた。1618年から、ヨーロッパでは30年戦争が起こった。スペインと神聖ローマ皇帝のカトリック・ハプスブルク勢力が神聖ローマ帝国のプロテスタント勢力やスウェーデンなどのプロテスタント勢力と戦っていた。長らく、カトリック・ハプスブルク勢力が優勢だった。

 1635年、リシュリューはフランスのスウェーデン側での参戦を決めた。というのも、神聖ローマ帝国とスペインのハプスブルク勢力の強大化を恐れたためである。フランスの参戦により、戦況が大きく変わっていった。1642年、この戦争が終結する前に、リシュリューは病没した。1648年、フランスの勝利で終わることになる。

 海外拡張の試み

 リシュリューはこのような成果をあげた。だが、達成できなかった点も多かった。陸軍の改革や強大な海軍の創設はおこなえなかった。また、財政や経済は不安定であり続けた。莫大な戦費は新税などによって賄われた。そのため、各地で反乱が生じ、武力で鎮圧された。

 ほかにも、1620年代からは、リシュリューはオランダの東インド会社をモデルとしてフランスの海外拡張を本格的に推進した。この頃、オランダはヨーロッパでも強大国であり、貿易の成功によって黄金時代を迎えていた。東アジアで活躍したオランダの東インド会社はその主な原因の一つだった。

 そのため、リシュリューはこの会社をモデルとし、同様の貿易会社の設立を推進した。カリブ海諸島にこれらを進出させ、砂糖栽培などで利益をあげようとした。だが、中南米はスペインやポルトガルがすでに進出しており、これらの国から妨害行為を受けた。そのため、リシュリューの計画はなかなか成功しなかった。のちにコルベールによって海外拡張事業は再編されることになる。

 リシュリューはフランス絶対王政の確立に貢献した宰相として一般的に認知されている。その仕事は道半ばで終わった。彼の役目は宰相マザランによって引き継がれる。

 ちなみに、リシュリューは1635年のアカデミー・フランセーズの創設でも知られている。学問の発展と統制が目的だった。国外からも、カンパネッラなどの学者を歓待した。

 リシュリューと縁のある人物

マリー・ド・メディシス:リシュリューを政治的に引き上げた王妃。だが、途中からリシュリューの天敵となった。リシュリューとの闘争に敗れたマリーは国外に亡命した。その末路とは・・・。

マザラン:リシュリューの後継者となった宰相。もともとはイタリア人だが、リシュリューに見出され、フランスの実権を握ることになる。

リシュリューの肖像画

リシュリュー 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

林田伸一『ルイ14世とリシュリュー : 絶対王政をつくった君主と宰相』山川出版社, 2016

ミシェル・カルモナ『マリ・・メディシス : 母と息子の骨肉の争い』 辻谷泰志訳, 国書刊行会, 2020

Aristotle Tziampiris, Faith and reason of state : lessons from early modern Europe and Cardinal Richelieu, Nova Science Publishers, 2009

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