清少納言は平安時代中期の歌人で随筆家(966?ー1025?)。本名は未詳。代表作には『枕草子』や『清少納言集』がある。紫式部とともに、平安時代の女流文学を代表する人物として知られる。
清少納言の生涯
清少納言は清原元輔(もとすけ)の娘として生まれた。母は未詳である。清少納言の呼称は父の姓に由来している。
父は歌人であり、『後撰集』の撰者もつとめた。祖父もまた歌人であり、ふたりとも歌仙三十六人に選ばれている。一族には、和歌や漢籍に精通した者が多かった。そのような環境で清少納言は育った。
結婚と出産
981年、清少納言は陸奥守の橘則光(たちばなののりみつ)と結婚した。982年には則長を出産した。だが、ほどなくして離婚した。
990年には、父が没した。
991年、清少納言は藤原棟世(むねよ)と結婚した。小馬命婦(こまのみようぶ)を出産した。棟世は亡き父と同じくらいの年齢であった。ほどなくして、別居した。
宮廷生活へ
993年、993年、清少納言は一条天皇の中宮の定子に出仕を始めた。宮中では、才気煥発な女房として人気を得た。清少納言は外向的で、宮中生活にすぐに適応した。当初は藤原実方らと親交を重ねた。
だが、華やかな宮廷生活もそれほど長くは続かなかった。995年、彼らの父の道隆(みちたか)が没した。中宮の定子とその周辺の繁栄は道隆が宮廷で勢力を維持していたおかげであった。
道隆の没後、実権が対抗勢力の左大臣の藤原道長に移動した。道長はライバルを排斥するのに成功していった。たとえば、996年に、中宮の兄弟たる隆家らが左遷されたのである。
道長は娘の藤原彰子(しょうし)を一条天皇の妻として推し、その後継者を産ませようとしていた。そのようにして、自らが摂関政治で実権を握りつつあった。
清少納言にとって不幸なことに、清少納言はこの宮廷の政治的変動において道長に内通する協力者だと疑われた。そのため、一時は蟄居した。
再び定子に出仕
その頃に、清少納言は『枕草子』を執筆し始めた。一通り完成させた。それが定子のもとに届けられ、喜ばせた。
その後、定子からの要請で、清少納言は再び彼女に出仕した。この頃には、定子は一条天皇の皇后になり、彰子が中宮になった。一人の天皇に二后が並立するという例外的な状況が生まれていた。
彰子には、道長という強力な後ろ盾がいた。定子は明らかに不利だった。だが、一条天皇の愛情のもと、定子は修子、敦康、媄子を生んだ。清少納言は定子を女房として支えた。だが、1000年、定子は24歳にして没した。
隠居
その後、清少納言は宮廷を去り、世間から距離を取る。別居していた夫の棟世は摂津守をつとめていた。清少納言はそこに移った。だが、住まいを転々として、愛宕山の月輪山荘に住んだ。
晩年は零落し、放浪した『無名草子(むみょうぞうし)』などに書かれている。だが、これは事実ではないと推測されている。
『枕草子』
1008年頃に、清少納言は『枕草子』を完成させたとおもわれる。上述のように本書の初稿が定子を喜ばせた。その後、多くの人々に読まれ、称賛された。そのため、清少納言はこれを改稿しはじめ、1008年に完成させた。
あるいは、改稿の次のような理由が提示されることもある。定子の没後、その三人の子どもたちは、
中宮の彰子のもとで育てられることになった。定子にたいするそれまでの道長の振る舞いからして、子どもたちの境遇は厳しいものになると、清少納言は予想した。そこで、清少納言は彼らの境遇がよいものになるよう、定子について道長によい印象を与えようとした。そのために本書を完成させた。
『枕草子』は300ほどの章段で構成されている。それらは3つの部分に分類されるのが一般的である。雑多なテーマを扱った類聚の部分、「春は曙」などで有名な随想の部分、そして宮廷生活に関する日記の部分である。
『枕草子』はこのように多様なテーマを扱うと同時に、多面的な作品である。日本で最初の随想文学作品であり、王朝文学の代表的作品である。
清少納言の肖像
おすすめ参考文献
島内裕子『『枕草子』の世界』放送大学教育振興会, 2024
山本淳子『枕草子のたくらみ : 「春はあけぼの」に秘められた思い』朝日新聞出版, 2017
萩谷朴『枕草子解釈の諸問題』新典社, 1991