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大友宗麟/義鎮

 大友宗麟は九州の戦国大名の一人(1530―1587)。最盛期には、九州地方の豊後や肥後など六カ国を支配した。フランシスコ・ザビエルに直接会い、のちにキリスト教徒になった。大村純忠とももに、キリシタン大名の代表的人物の一人としても知られる。天正遣欧少年使節をローマに派遣した。

大友義鎮の生涯

 義鎮は現在の大分市にあたる豊後の府内で、大友氏の二十代目の義鑑の長男として生まれた。幼名は塩法師丸(しおほうしまる)である。元服して、義鎮(よししげ)と名乗った。

 1550年、天文19年、父の義鑑は義鎮を後継者から除外しようとしていた。だが、父は臣下に暗殺された。その結果、義鎮が大友氏の家督を継いだ。

 九州の戦国大名としての繁栄

 その頃、1549年、カトリック宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到来した。初めて、キリスト教会を日本で設立し始めた。1550年、ザビエルは天皇に宣教の許可をもらうべく、京都に向かった。だが、京都は応仁の乱の影響で荒廃していた。ザビエルはそこで山口に移り、宣教活動を開始した。

 1551年、義鎮はザビエルを豊後に誘致し、宣教活動を許可した。ザビエルからは一定の感銘を受けたようである。

 1559年、義鎮は九州の6国を支配し、九州に一大勢力を築いた。豊前・筑前・筑後・豊後・肥後・肥前である。1562年、怡雲(いうん)和尚のもとで剃髪し、瑞峯宗麟を名乗るようになった。

 1570年には、それまで敵対関係にあった毛利氏と和議を結んだ。これにより、大友氏は一層繁栄に向かった。1576年、義鎮は家督を義統に譲った。だが、実際には、義鎮実権を譲ったわけではなかった。

 代表的なキリシタン大名へ:大友純忠らとともに

 1578年、義鎮は洗礼を受け、キリシタン大名となった。洗礼名は、ザビエルにちなんで、フランシスコを名乗った。1582年には、大村氏らとともに、天正遣欧少年使節使節をローマ・ヴァチカンのローマ教皇のもとへ派遣した。

 しかし、1578年には、義鎮は耳川の合戦で島津氏に大敗した。その結果、広大な領地で家臣たちの離反が頻発した。義鎮の斜陽は明らかとなってきた。

 1586年、島津氏が攻勢を強めた。義鎮の分国を切り崩され、本拠地の豊後府内もまた危機に陥った。そこで、1587年、義鎮は大坂城へ向かい、豊臣秀吉に救援を求めた。これにより、秀吉の九州平定が始まった。大友氏は秀吉から豊後を安堵された。義鎮は病死した。

 キリシタンの禁制へ

 秀吉の九州平定は同年のキリスト教へのバテレン追放令につながった。17世紀にはいり、徳川幕府のもとで、本格的な禁教令が始まった。かくして、ヨーロッパの宣教師は処刑や追放によって日本からいなくなる。その頃には、義鎮や大村氏などの主要なキリシタン大名がヨーロッパで美化されることになる。画像はその頃のヨーロッパで描かれた大友義鎮である。

大友宗麟の肖像画

大友宗麟 利用条件はウェブサイトで確認

☆大友宗麟の観光地:南蛮BVNGO交流館

 大友宗麟に関連する観光スポットとしては、南蛮BVNGO交流館がおすすめだ。これは宗麟の本拠地だった豊後(Bungo)に、すなわち大分県にある観光施設である。特に宗麟とその南蛮時代に特化している。宗麟について深く知ることができる。さらに、宗麟の服装を試しに着ることができたり、宗麟の時代の大分の町並みをCGで見れたり、当時の茶室に入ったりすることもできる。宗麟と南蛮時代の歴史情緒に浸りたい人には、うってつけだ。

https://www.city.oita.oita.jp/o204/bunkasports/rekishi/koryukan/top.html

●アクセス
JR大分駅から南蛮BVNGO交流館へ
→徒歩で15分

福岡空港からJR大分駅へ
→新幹線と在来線で2時間30分程度

おすすめ参考文献

小俣ラポー日登美『殉教の日本 : 近世ヨーロッパにおける宣教のレトリック』名古屋大学出版会, 2023

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