ジャック・スペックス

 ジャック・スペックスはオランダの東インド会社の上級商人(1585ー1652)。1609年から、日本の平戸商館の初代の商館長をつとめた。設立直後の困難な時期を乗り切った。第三代もつとめた。1629年からは同会社の東インド総督を臨時でつとめた。最晩年には、西インド会社の重役もつとめた。

スペックス(Jacques Specx)の生涯

 スペックスは現在のオランダのドルドレヒトで生まれた。

 スペインやポルトガルとの戦争

 1590年代半ば、スペックスが10代に入る頃、オランダはまだ独立国ではなかった。主君のスペイン王フェリペ2世に反乱を起こしていた。当時、スペインはポルトガルを併合していた。

 オランダの東アジア進出

 1590年代半ば、オランダは東アジアの海への進出を開始した。その海域では、ヨーロッパ勢力としては、すでにスペインとポルトガルが進出していた。15世紀末のヴァスコ・ダ・ガマの東インド開拓以降、主にポルトガルがこの海域で貿易を行っていた。

 オランダはヘームスケルクが東南アジアでの香辛料貿易の試みに成功した。この成功は、リンスホーテンの『東方案内記』に支えられたものだった。この試みが莫大な利益をうんだため、オランダでは東アジア交易が本格化していった。まもなく、ファン・ノールトがオランダ人として初めて世界一周を達成した。

 オランダ東インド会社の活動

 オランダからリーフデ号が東アジアへ旅立った。1600年、日本に漂着した。乗船していたオランダ人のヤン・ヨーステンやイギリス人のウィリアム・アダムズが徳川家康らと交渉した。これを機に、オランダは日本貿易に着手した。

 その少し後、オランダでは東インド会社が設立された。これ以降、オランダ東インド会社がオランダの東アジア貿易を独占的に行うことをオランダの全国議会から許可された。

 東アジアの海での戦争

 上述のように、オランダはスペインやポルトガルと戦争していた。さらに、東アジアの海域では、これらの国がオランダの貿易を妨害しようとした。そのような中で、オランダの東インド会社はスペインやポルトガルの船や拠点を攻撃した。

 東インド会社は今日の商社とは異なり、平和な貿易だけを行う会社ではなかった。独自の軍隊を持つ組織でもあった。特に、この時期は、スペインやポルトガルとの戦争の道具として、オランダの全国議会に利用されていた(より詳しくは、「オランダ東インド会社」の記事を参照)。

 この時期、ヨーロッパでの両者の戦争は膠着状態にあった。講和条約の交渉がもたれ、1609年には最終的に12年間の休戦条約が結ばれた。その直前に、スペックスは東インド会社の商人として東アジアへ派遣された。
 オランダ東インド会社は休戦条約が締結される前に、東アジアでの支配地を拡大しようと急いだ。というのも、休戦条約が結ばれたなら、もはや東アジアでのスペインやポルトガルの拠点を攻撃するのが難しくなると考えたためである。逆に、戦争中の今ならば、彼らは敵なので攻撃しても問題ないと考えた。

 休戦条約の締結とともに、この海域での勢力図は固定してしまうと見込んだのだ。東インド会社はこの海域の新参者であったので、現状のまま勢力図が固定するのは問題だと考えた。そこで、急速な勢力拡大を図った。

 スペックスの日本到来へ

 この頃、オランダ東インド会社は東アジア海域にまだ拠点を形成するのに成功していなかった。そのため、日本貿易のための交易品を入手できなかった。とはいえ、徳川幕府から交易を許可されていたので、なんとかして交易を行うべき状況だった。

 そのため、オランダ東インド会社は東南アジアの拠点から船を日本へ出発させ、日本に到着する前にポルトガル船などを襲って積荷を奪おうと計画した。その積み荷を日本で交易品として売却するつもりだった。完全に見切り発車だった。このような行動により、ポルトガルはオランダを海賊として幕府に訴えた。

 平戸商館長へ

 このような状況で、1609年、スペックスらは日本に到着した。スペックスは同会社の初代商館長となり、長崎の平戸に平戸商館や倉庫などを建設した。

 1610年、スペックスはシャム行きの日本船に社員を乗せて商売させた。1611年には、バンテンからの会社の船が平戸へ入港した。
 1612年、スペックスはオランダ総督のマウリッツの書簡を家康に渡した。そこでは、日本の軍事物資と人間をスペインとの戦いのために輸出する許可が求められた。家康はこれを承諾した。

軍事的補給地という役割

 1613年以降、平戸商館は軍需品と日本の武士などをインドネシアの香辛諸島などに送った。武士を上述のスペインやポルトガルとの戦争のための傭兵にしたのである。
 家康からすれば、この申し出は都合がよいと思われた。秀吉が没したのち、家康は関ケ原の戦いで勝利し、実権を握った。その権力基盤をかためている最中だった。数々の戦争で主君を失った武士は浪人となり、社会の不穏分子になる恐れがあった。そのため、彼らを海外に傭兵として排出するのは好都合と思われた。

 朱印船貿易などの展開

 スペックスは1613年に平戸商館長の地位から外れた。1614年に再びそれに就任し、1620年まで続けることになった。
 同年、スペックスは朱印船貿易を開始した。オランダ東インド会社の船が朱印状をもって、バンテンや香辛諸島、シャムなどを往復したのである。また、この時期は、オランダ東インド会社は平戸だけでなく、長崎や静岡、江戸などで商業を行っていた。日本人に委託販売もした。
 この時期の輸出品の大部分はなる日本銀や、ほかの金属類、武器、香辛諸島への食料や資材であった。輸入品は中国の生糸と絹が圧倒的だった。
 オランダ東インド会社は東アジアでのポルトガルの拠点を攻撃し、その船を襲った。日本近海でもそうした。ポルトガル船の捕獲は幕府が不問としたので、東インド会社の所有物になった。捕獲品は中国の生糸や麝香などで、販売ないし将軍に献上された。

 バタヴィアへ

 1621年、スペックスはインドネシアのバタヴィアに移った。バタヴィアは東インド会社の東南アジアでの本拠地として建設途中だった。1627年には、スペックスはオランダに帰国した。そこで、日本貿易の詳細を報告した。東インド会社の重役に昇進した。

 1629年、スペックスは再びバタヴィアに移った。同会社のバタヴィア政庁の参事をつとめた。東インド総督のクーンが没したため、スペックスは総督を継いだ。

 この時期、日本との間で生糸交易をめぐって台湾事件が起こり、東インド会社と日本の貿易がストップしていた。スペックスが豊富な経験を駆使して、この一件の解決に貢献した。

 西インド会社の重役に

 その後、1630年代前半にオランダに帰国して、東インド会社を退職した。1643年、その経験をかわれて、オランダの西インド会社の重役となった。
 オランダの西インド会社は1621年に創設された。アフリカ西部とアメリカを対象地域としていた。だが、この時期の西インド会社は負債で苦しんでいた。対照的に、東インド会社は莫大な利益をあげていた。
 二つのインド会社はオランダの全国議会の特許状によって成立する会社だった。西インド会社の再起案として、東インド会社との合併という案が全国議会に出された。スペックスはこの一件に関わった。西インド会社はこれを強く望んだが、東インド会社は強く拒んだ。
 最終的には、合併案は否決された。そのかわりに、東インド会社が西インド会社に巨額の資金援助をすることになった。
 1652年、スペックスは没した。その遺産目録には、日本や中国の品々があったという。

 スペックスと縁のあるスポット:平戸商館

 平戸商館は17世紀半に幕府の命令で壊された。だが、平戸商館が日本の歴史上で担った重要な役割に鑑み、1987年から本格的に発掘調査がなされた。

 その後、学際的な研究成果を用いて、当時の平戸商館が復元された。現在は平戸オランダ商館という名称で、博物館として一般公開されている。内部の展示では、当時の日蘭貿易で取引された品がみられる。たとえば銅棹や香辛料などである。

スペックスの肖像画

スペックス 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

永積洋子『平戸オランダ商館日記 : 近世外交の確立』講談社, 2000

荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』吉川弘文館, 2003

Femme S. Gaastra, The Dutch East India Company : expansion and decline, Walburg Pers, 2003

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