徳川慶喜:日本最後の将軍

 徳川慶喜は江戸時代の最後の将軍で、徳川第15代将軍(1837―1913)。在任は1866−68年。将軍になる前は一橋慶喜。将軍就任前は優れた政治手腕で知られた。将軍の後継者問題で一悶着あったが、最後の将軍に就任し、幕政改革を試みた。だが薩長同盟に倒された。明治時代には、西洋の文物を好んだ。これからみていくように、あの西洋の最新の機器に熱中した。

徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の生涯

 徳川慶喜は水戸藩主の徳川斉昭(なりあき)の子として、江戸藩邸で生まれた。水戸の弘道館で学んだ。1847年、一橋家を継ぎ、慶喜を名乗った。

 徳川家の跡継ぎ問題

 1853年のアメリカ提督ペリーの黒船来航により、幕府の支配体制は動揺していた。本来ならば、将軍の強力なリーダーシップを期待したいところだったが、将軍の徳川家定は病弱だった。子もおらず、後継者選びが大きな争点となった。

 一橋慶喜は優れた政治手腕で知られた。そのため、多くの大名は慶喜を次期将軍に望んだ。だが、譜代の大名たちは彼が水戸の徳川出身という理由で反対した。彼らは次期将軍に徳川家茂(いえもち)を推薦した。両者が競り合うことになった。

 1858年、井伊直弼が大老に就任した。彼は家茂の支持者だったため、慶喜派は敗北した。家茂が将軍に就任した。さらに、慶喜派が一斉に処分を下され、慶喜もまた隠居と謹慎に処せられた。

 第15代将軍へ

 だが、事態は1860年に井伊直弼が桜田門外で暗殺されたことで変わった。幕府の内部では協調路線が強まった。慶喜は謹慎を解かれた。1862年には、将軍の後見職となった。慶喜は幕政の改革を試みた。朝廷とは攘夷か開国かをめぐって交渉し、開国を推進しようとしたが、うまくいかなかった。

 この頃、長州藩が尊王攘夷運動を活発に展開していた。下関では、実際に外国船舶に砲撃を加えた。長州藩は幕府とも対立するようになり、1864年、京都に出兵した。慶喜はこれを撃退するのに成功した(蛤御門の変)。また、同年、西洋列強が長州藩を海から攻撃し、長州藩は完敗した(馬関戦争)。そのため、長州藩は日本の現状を打開するために、攘夷から倒幕に方針を転換した。

 長州藩と薩摩藩が倒幕のために同盟を結成した。1866年、幕府は長州藩の征伐を試みるが、失敗した。その頃に将軍家茂が没した。同年末、慶喜が第15代将軍となった。

 徳川幕府と薩長同盟の対決

 慶喜はフランスのロッシュの助言を受けながら、幕政改革を進めた。だが、大勢を変えることはできなかった。薩長と幕府は朝廷の支持を得ようと画策した。1867年、ついに朝廷は倒幕の密勅を薩長に与えた。これを受けて、慶喜は薩長との戦争を回避すべく、徳川家の勢力を温存する形で大政奉還を行った。徳川幕府が名目的に崩壊した。同年末、薩長は御前会議において、王政復古の大号令を発した。

 1868年、旧幕府勢力の一部が薩長のこれらの挑発に耐えられず、ついに戦争の火蓋が切られた。鳥羽・伏見の戦いが始まり、幕府が敗北した。慶喜は江戸に戻り、徳川家の菩提寺たる上野の寛永寺に自ら謹慎した。その後、西郷隆盛と勝海舟の江戸城無血開城の後、慶喜は水戸で謹慎した。戊辰戦争が終わり、徳川幕府は名実ともに滅んだ。

 その後、明治政府は慶喜に徳川の家督を家達(いえさと)に譲らせた。慶喜は駿府に移った。1869年には、謹慎を解かれた。

 近代化する日本での慶喜:写真愛好

 明治時代には、西洋文化が一気に日本に流入した。慶喜はこれらを好んだ。パンやミルク、豚肉などを好んで食した。また、当時実用化され始めた写真機に関心を抱き、写真家としても活躍した。

 晩年には、将軍と同じ正二位の地位に叙せられた。1902年には公爵となり、1908年には勲一等の旭日大綬章を授与された。

徳川慶喜の肖像写真

徳川慶喜 利用条件はウェブサイトにて確認

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

 徳川慶喜と縁のある人物

ダゲール:ダゲールは慶喜とは面識がない。明治時代に慶喜が熱中した写真の発明家である。ダゲールによる写真の技術革新がなければ、写真機が慶喜の手に渡ることもなかったかもしれない。

おすすめ参考文献

家近良樹『徳川慶喜』吉川弘文館, 2014

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