薔薇戦争(1455ー85年)

 薔薇戦争は1455ー85年にイギリス(イングランド)で生じた内戦。ランカスターとヨークの二つの王家が戦った。ランカスターの赤薔薇とヨークの白薔薇にちなんで薔薇戦争と名付けられた。戦争の結果、ヘンリー7世の即位によってチューダー朝が始まった。この戦争によって王権が強化された。

薔薇戦争の原因と背景

 15世紀半ばに近づく頃、イギリスはランカスター朝ヘンリー6世が支配していた。だが、この王権は権力基盤が盤石ではなかった。フランスとの百年戦争による疲弊がその一因だった。

 王権がイギリス全体を確固として支配する状態ではなかった。貴族たちが軍備を整え、勢力を保ち、地方を事実上支配していた。また、不法行為が横行しているにもかかわらず、王権はこれに対処できない状態が続いていた。

 このような中で、1453年、百年戦争が終わった。兵士たちが帰国して、貴族たちに加わった。貴族たちはヘンリー6世の王党派と、ヨーク公リチャードをトップとする反王党派に分かれていた。

 同年、ヘンリー6世が精神に異常をきたした。そこで、ヨーク公が摂政を務めた。ヨーク公は権力の座を狙っていた。だが、1554年にはヘンリー6世の後継者が生まれた。また、1555年には、ヘンリーの病も回復した。そこで、王妃がサマーセット公を摂政に選んだ。これにより、ヨーク公が反乱を起こし、薔薇戦争が始まった。

 薔薇戦争の開始

 当初、ヨーク公が優勢となり、ヘンリー6世を捕らえた。だが、王妃の軍がヨーク公を打ち負かした。ヨーク公らはフランスに亡命を余儀なくされた。それでも、1460年には、ヨーク公は形勢を立て直し、帰国して反撃に出た。ヨーク公はイギリス王への即位を宣言した。だが、再び王妃の軍の活躍により、ヨーク公はついに戦死した。

 だが、ヨーク派はこれで終わらなかった。1460年、ヨーク派のウォーリック伯がフランスで軍備を整え、イギリスに帰国して王妃の軍に反撃した。1461年には、ヨーク公の子エドワードが王妃の軍を打ち倒すのに成功した。王妃らはスコットランドに亡命した。彼はヘンリー6世を廃位してイギリス王エドワード4世として即位した。よって、ここにイギリスのヨーク朝が始まった。

ヨーク朝の支配

 エドワード4世は存命中に王権を安定させようと務めた。ウォーリック伯と対立するようになったが、彼をフランスに追いやった。だが、1470年、ウォーリック伯はそこでランカスター派と結託して、イギリスに戻った。エドワード4世の軍を打ち破り、ヘンリー6世の王位を復活させた。

 だが、1471年、エドワード4世が反転攻勢に成功した。ウォーリック伯を打ち倒し、ヘンリー6世を殺し、自ら再びイギリス王となった。その後は、国内の財政や経済などで改革を進め、王権の強化につとめた。

 1483年、エドワード4世が病没した。新たにイギリス王には、ヨーク朝のエドワード5世が即位した。だが、まだ13歳だった。叔父のグロスター公はこれを好機として、エドワード5世を陰謀によって殺害した。自らリチャード3世としてイギリス王に即位した。

戦争の終結:勝者は・・・

 ヨーク朝がこのように内紛に陥っている間に、ランカスター朝の王位後継者ヘンリーが亡命先から帰国した。ヘンリーは反転攻勢をしかけ、1485年のボズワースの戦いでリチャード3世を打ち倒した。新王ヘンリー7世はチューダー朝を開いた。

 1486年、ヘンリー7世はヨーク朝のエドワード4世の娘エリザベスと結婚したため、両家の対立は収まった。この戦争でイギリスの封建貴族の勢力が弱体化した。その結果、王権が伸張する。チューダー朝の支配基盤が固められたことになる。16世紀、チューダー朝の王権はさらに支配を強化していく。

薔薇戦争 利用条件はウェブサイトで確認

画像は戦争が終結したシーン

おすすめ参考文献

トレヴァー・ロイル『薔薇戦争新史』陶山昇平訳, 彩流社, 2014

A.J. Pollard, The wars of the roses, Palgrave Macmillan, 2013

Chris Skidmore, The rise of the Tudors : the family that changed English history, St. Martin’s Press, 2013

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