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フランシスコ・ザビエル:日本で最初のヨーロッパ宣教師

 フランシスコ・ザビエルはカトリックの修道士(1506ー1552)。スペインのナバラで生まれた。ロヨラとともにイエズス会の創立メンバーになった。ポルトガル王の要請で東アジアに宣教師として派遣される。当初の目的地ではなかった日本で最初のキリスト教の宣教師となった。ではなぜ日本に到来したのか。その理由とその後の活動を説明する。

ザビエル(Francisco Xavier)の生涯

 フランシスコ・ザビエルは1506年、スペインで貴族の子として生まれた。1525年、当時の神学教育・研究で最高峰だったパリ大学に留学した。その時に、ザビエルの運命を決定づける出来事が起こる。すなわち、イグナシオ・デ・ロヨラという人物と出会った。

イエズス会の創設へ

 彼らは意気投合し、他の人物とともに、新しい修道会を結成することになっ。それはイエズス会である。教皇によって正式に認可されたのは1540年だった。それゆえ、ザビエルはイエズス会の創設メンバーだった。イエズス会の初代総長は、すなわち初代のトップはロヨラだった。

 ザビエルが生きた大航海時代

 この時代、ヨーロッパはいわゆる大航海時代に突入していた。教科書的にいえば、ヨーロッパ人がインドの胡椒などを求めて、はるか遠い地を目指して探検航海を行った時代だった。

 そのような冒険で先陣を切って成功したのは、ポルトガルとスペインである。スペインは西へ向かい、ポルトガルは東へ向かった。スペインの場合、1492年にコロンブスがスペイン王権の後ろ盾のもとでアメリカ大陸に到達した。いわゆる新世界の「発見」である。

 ポルトガルの場合、1498年にヴァスコ・ダ・ガマがインドへ到達し、東インド航路を開拓した。その後、ポルトガルは当初の狙い通りにインドの胡椒などのスパイスを入手することができ、ヨーロッパでそれらを売って莫大な富を得た。その後も、ポルトガルはインド総督アルブケルケがゴアやマラッカの拠点建設に成功するなどして、南・東南アジアにも拠点を拡大していった。

 ザビエル、ヨーロッパを発つ

 ザビエルが大学生だった1520年代、ポルトガルは国王ジョアン3世がキリスト教の宣教に熱心だった。後に「敬虔なる王」と呼ばれるほどに。ジョアン3世はインド宣教を進展させようと考えていた。そこで、イエズス会にも協力を求めた。ロヨラがこれを引き受け、ザビエルを派遣することになった。

 よって、当初ザビエルは日本宣教でなくインド宣教のためにヨーロッパを旅立った。そして、二度と祖国の土を踏むことはなかった。当時は現在と比べれば交通の便が非常に悪く、ヨーロッパと東アジアの船旅は往復で早くても二年はかかった。それゆえ、当時の宣教師は往々にして一度ヨーロッパを旅立てば二度と祖国に帰ることはなかった。大航海時代における遠方の宣教活動とはそのようなものだった。

 いよいよ日本へ:アンジローとの出会い

 ザビエルはインドで三年間、宣教活動に従事した。しかし、なかなか思うようにいかず、新天地を求めるようになった。マラッカに移動した際、転機が訪れた。ザビエルは日本人のアンジローと出会った。アンジローは鹿児島出身の日本人である。なんらかの罪を犯して国外に移動した結果、この土地に滞在していたようだ。ザビエルと会ったとき、アンジローは30代なかばであり、すでにポルトガル語を話すことができた。
 ザビエルはアンジローを介して日本の存在を知り、日本宣教への関心を抱くようになった。1549年、ザビエルはポルトガルのインド副王などの支援を受けて、ついに日本へと出発した。

 鹿児島での宣教活動

 同年、ザビエルは鹿児島に上陸した。ポルトガル人の種子島到来が有名であるように、ポルトガル人はすでに鹿児島に到来し、貿易をしていた。当初、日本人はヨーロッパ人をもっとも遠くにあると思われた天竺の人々とみなした。
 ザビエルは領主の島津明久に謁見して宣教の許可を得るなどして、1年間ほどそこで宣教活動を行った。100名ほどがキリスト教徒に改宗した。ほとんどがアンジローの友人と親戚である。
 興味深い例として、後にヨーロッパへ渡ってローマ教皇に謁見したベルナルドと呼ばれる人物がその中に含まれていた。なお、ベルナルドは洗礼(を受けるときにつけられる)名であり、彼は日本人である。

 京都から山口での本格的活動へ

 ザビエルは当初から、京都にいる天皇を日本の国王とみなして、日本宣教の許可を得ようと計画していた。そこで、ザビエルはまず長崎の平戸へ移動し、そこから博多や山口を経由して京都に到達した。しかし、当時の京都は応仁の乱の影響で荒廃しており、いまだに戦闘の可能性があった。そこで、ザビエルは10日間ほどで教徒を脱し、山口へ戻った。

 当時の山口は西の京と呼ばれるほど発展していた。よって、ザビエルは山口で本格的な宣教を開始した。まずは宣教の許可を得るべく、領主の大内義隆と会うことにした。インド副王などの正式の書状や、時計や眼鏡などの珍奇な贈り物を携えていった。その結果、大内義隆に大いに歓迎された。

 ザビエルは山口では武士や知識人の改宗にも成功しており、一定の成果をあげたといえる。それゆえ、今日の山口県にはザビエルと縁のある教会や記念碑がみられる。

 大友宗麟との出会い

 1551年には、現在の大分県にポルトガル船が到来したのに合わせて、その領主の大友義鎮(宗麟)に会いった。彼はポルトガルとの貿易を望んでいたこともあり、ザビエルを歓待した。周知のように、彼は後にキリシタン大名の一人になる。その際につけられた洗礼名はフランシスコであり、これはザビエルに因んでつけたもの。

 宣教活動の内実

 では、ザビエルはどのように宣教活動をしたのか。 ザビエルはほとんど日本語を知らずに日本に到来した。路上での説教をするにしても、ザビエルは日本がまともに話せない。そこで、アンジローと協力した。まず、ザビエルが宣教内容を文章化した。これを、アンジローとともに和訳した。その和訳をアンジローのような日本人の協力者が説いた。
 ザビエルとアンジローが行った説教の内容は次の通りである。天地の創造、 天使、アダムとイブの創造、ノアの洪水、バベルの塔、偶像崇拝の始まり、ソドムの破壊、ヨセフとヤコブ、イスラエル人の捕囚と脱出、十戒、ダビデ王、エリシャ、ダニエル、受肉、キリストの一生、復活と帰天、最後の審判と賞罰。このように聖書の大まかな内容を説いていた。
 しばしば指摘される問題は、当初、翻訳する際にキリスト教の用語を仏教用語に置き換えたことである。たとえば、キリスト教の神(Deus)を大日如来と訳した。
 その結果として、二点挙げられる。第一に、当然のことながら、キリスト教の教義を正確に伝えることに失敗した。この失敗に気づき、ザビエルはキリスト教の用語を仏教用語に翻訳するのをやめた。とはいえ、この時点で、正確な和訳を行える人物は存在しなかった。よって、原語をそのまま使用することにした。
 第二に、キリスト教は仏教の一種として日本で受け入れられた。もちろん、これはキリスト教が誤解されたということを意味する。だが、その宣教活動がスムーズにする効果をももった。というのも、キリスト教は完全に見知らぬ宗教としてではなく、馴染のある宗教の一部として日本人に紹介されたからである。

 中国への挑戦と死

 ザビエルはその後、日本を出発して中国へ向かい、そこで生涯を終えた。かくして、ザビエルは日本において大量の改宗者を生み出したわけではない。それでも、日本のキリスト教会の礎を築き上げた。ザビエルは日本からヨーロッパのロヨラにたいして、どんどん宣教師を日本に送るよう要請した。その結果、後続の宣教師たちが日本の教会をさらに育て上げることになる。彼らが南蛮貿易で不可欠な役割を担う。南蛮文化が桃山時代に広まることになる。かくして、ザビエルは日本に西洋の新たな風を吹き込んだ。

 死後のイメージ形成

 ザビエルの死後、日本宣教の成功はヨーロッパで喧伝された。特に、16世紀後半は日本宣教が実際に軌道に乗っていったので、その成功とともにザビエルの功績がヨーロッパで喧伝された。当時のヨーロッパはルター以降の宗教改革の時代に突入していたので、その分だけカトリック教会の威信を喧伝するためにザビエルの日本宣教成功は利用された。ザビエルはカトリック教会のある種の英雄として扱われるようになり、下の画像のように、多くの図像が生み出されるようになる。

17世紀に描かれたザビエルの絵画の一例

 1622年には、ザビエルはローマ教皇庁からその功績を認められ、教皇パウルス5世によってロヨラとともに列聖された。対抗宗教改革でカトリックの宗教画が多く算出される中で、ザビエルはそのレパートリーの一つとなった。

 ザビエルと縁のある人物

ジョアン3世:ザビエルを東アジアに派遣したポルトガル王。ポルトガルの黄金時代を代表する王の一人。東アジア以外にも、あの地域にも宣教師を熱心に派遣した。

ロヨラ:ザビエルとともにイエズス会を創設したメンバーで、その初代総長。最初から聖職者の道を目指したわけではなかった。だがそれを目指すようになったきっかけは意外な出来事だった。

ザビエルの肖像画

フランシスコ・ザビエル 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

東馬場郁生『きりしたん受容史 : 教えと信仰と実践の諸相』教文館, 2018

チーリスク編(1999)『キリシタン (日本史小百科)』東京堂出版
岸野久(1989)『西欧人の日本発見―ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館

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