チャールズ1世:議会に処刑された王

 チャールズ1世は17世紀前半のイギリスの王(1600ー1649)。在位は1625−49。スチュアート朝の王。ピューリタン革命で議会によって処刑された。当時これは極めて例外的であり、ヨーロッパで大きな衝撃を与えた。では、なぜチャールズ1世は自国の議会によって処刑されるに至ったのだろうか。

チャールズ1世(Charles I)の生涯

 チャールズ1世はスコットランドのダンファームリン宮でイギリス王ジェイムズ1世とデンマーク王女アンの次男として生まれた。1612年、兄ヘンリーが没したため、チャールズが皇太子となった。スペイン王フェリペ3世の娘との婚約交渉が行われた。だが、チャールズのカトリック改宗が求められたため、破談した。

 イングランドやスコットランドの王として

 1625年、父が没した。そこで、彼がチャールズ1世として即位した。同年、フランス王ルイ13世の妹アンリエッタ・マリアと結婚した。

 同年、チャールズは議会を開いた。議会の勢力はチャールズの重臣バッキンガム公の戦争などにかんする失政を攻撃した。さらに、チャールズにたいしては課税権を認めようとしなかった。1626年の議会でも、議会の勢力はバッキンガム公を弾劾しようと試みた。

 チャールズはこれを阻止しようとして、議会を解散した。だが、戦争の費用が重くのしかかったので、費用の徴収を断行した。すなわち、議会の同意なしに臨時の課税を行ったのである。これを拒否していた騎士などを逮捕し、投獄した。

権利の請願

 そのため、次の議会では、議会勢力はこのような王の恣意的な権力行使に対抗しようと試みた。その頃、1628年、フランスでは、ルイ13世がプロテスタント勢力を弾圧し、ラ・ロシェルの戦いに至っていた。バッキンガム公はプロテスタント勢力を救援すべく、出兵した。だが、結局敗北した。

 このような戦争の失敗の中で、1628年、イギリスの議会勢力は「権利の請願」を提出した。そこでは、議会の承認なしに課税されないことや、正当な理由なく逮捕されないことなどが求められた。チャールズはしぶしぶ権利の請願を受け入れた。バッキンガム公は暗殺された。

 1629年、議会が開かれた。ここでは、議会勢力は依然として王の課税権をめぐってチャールズと対立した。チャールズは議会を解散した。以後。11年間は議会を開かなかった。

議会の開かれない時期

 その後、チャールズはカンタベリー大主教のロードとストラフォード伯を重用した。室裁判所と高等宗務官裁判所という国王大権裁判所をもちいて、反対派を弾圧した。比較的安定した時期が続いた。関税を強化し、船舶税を全国で導入した。

 チャールズはカトリックに改宗するのではないかという噂が徐々に広まった。そもそも、イギリス王は16世紀前半のヘンリ8世以来、基本的にプロテスタントだった。だが、メアリ1世はカトリックに改宗してイギリスをカトリックに引き戻し、プロテスタントを弾圧した。

 メアリの後の時代では、プロテスタントがイギリスで着した。メアリの時代のプロテスタントの犠牲者は殉教者として尊ばれた。同時に、反カトリックの気運がイギリスで広まった。だが、チャールズは上述のロードを用いて、イギリスの宗教をカトリックに近づける政策をとった。

 そのため、これに反発する動きがみられた。たとえば、教会儀式でのオルガンの使用やステンドグラスが論点となった。また、一部のピューリタンはイギリスの北米植民地へ移住した。

 議会との対立

 この流れで転機となったのは、1637年、チャールズがスコットランドに国教会の祈祷書を強制したことである。これにより、スコットランド人民が反乱を開始した。チャールズはこれを鎮圧しようとした。

 かくして、1639年に第一次主教戦争が開始された。1640年、チャールズはその戦費を確保するために議会を召集した。上述のように、11年ぶりの開催である。

短期議会

 この議会では、それまでのチャールズの横暴ぶりにたいして、議会勢力は大いなる不満を表明し、チャールズと対立した。。そこで、チャールズは議会をすぐに解散した。この議会は3週間しか開かれなかった。そのため、これは短期議会と呼ばれている。

 ちなみに、この時代は現代と異なり、毎年徴収されるような制度化された税金から戦費を支出するという仕組みがまだ整っていなかった。ヨーロッパでは長らく、君主が戦争を行う際には、戦費を徴収するために、戦争の度に議会を開いて貴族や都市の代表者らと交渉していた。戦争の費用を税金や国債で賄う仕組みがヨーロッパではこの時代から徐々に形成されていくことになる。

長期議会

 チャールズはスコットランドとの戦争のために再度進軍した。だが敗北し、賠償金を支払うことになった。1640年、そのための費用を確保すべく、再び議会を開いた。これはその後、12年間も開かれることになるので、長期議会と呼ばれる。

 長期議会では、チャールズは再び議会勢力と対立した。だが今度は、王が自身の決定だけで議会を解散できないことに同意せざるを得なかった。ロードとストラフォード伯は処刑された。

 議会はさらに、議会の同意なき課税を撤廃し、星室裁判所などの廃止を進めようとした。王の失政を大抗議文で非難し、王が専制を行わず伝統的なルールに基づいて行動するよう求めた。

 だが、1641年には、英国教会の廃止をめぐって、議会勢力が内部分裂を始めた。また、そのころ、イギリスの支配下にあったアイルランドで反乱がおきた。これによる実際の被害者は数千人だったが、20ー30万人だと誇張したデマが流れた。

 これがイギリスで反カトリック意識を刺激した。この反乱はカトリックの武装蜂起とか、チャールズがアイルランド兵によって再起をかけるとか噂された。1642年、両者の対立はついに内戦に至った。ピューリタン革命の始まりである。

 清教徒革命(ピューリタン革命)

 この内戦で、王党派は貴族やジェントリの大部分であり、英国教会を支持した、議会派は貴族やジェントリの一部と商工業者らであり、ピューリタンを支持した。ただし、中立派も多かった。
 当初、王軍が優勢だった。議会軍は素人軍団であった。しかも、それぞれの地域の利害を重視する地域主義により、内部に不和がみられた。だが、1643年、クロムウェルが連合軍を結成し、活躍し始めた。議会派はスコットランドの援軍を期待し、彼らと厳粛な同盟と契約を結んだ。

 その代わりに、スコットランドはイギリスが宗教政策としてカルヴァン主義的な長老主義を採用するよう求めた。議会の一部はそれに呼応した。そのため、長老派と呼ばれることになり、王との妥協を模索した。議会の独立教会主義者は王との徹底抗戦を主張し、軍隊を基盤とした。

 1644年、スコットランドの援軍とクロムウェルの活躍で、議会軍が勝利した。1645年、議会はニュー・モデル軍を編成した。。同年、王軍はネーズビーの戦いで敗れ、次第に劣勢となった。1646年、ついにチャールズはスコットランド軍に投降した。その後、議会軍に引き渡された。第一次内戦は同年のオックスフォード陥落で終結した。

 その後、議会内部の対立が深まっていった。王党派はこれをチャンスとみなし、反革命の動きを活発化させた。1648年、チャールズはスコットランド軍と手を組んで、第二次内戦へ突入した。議会では独立派議員が主導権を握り、長老主義の議員を追放した。王軍の撃退に成功した。

処刑へ:その衝撃

 1649年、議会は王を裁く高等裁判所を設置した。クロムウェルらが裁判官となった。専制君主、反逆者、殺人者、国家にたいする公敵として、チャールズは死刑に処された。君主制と貴族院が廃止された。

 イギリスの議会が王の首をはねたことはヨーロッパに衝撃を与えた。実のところ、議会や民衆が王のような主君に反乱を行うケースは16世紀からかなり増えていた。だが、たいていは成功せずに、鎮圧された。

 主君を追い出すのに成功した数少ないケースは隣国のオランダぐらいだった。オランダは主君だったスペイン王を追い出し、1648年のウェストファリア条約で正式に独立するのに成功していた。

 とはいえ、スペイン王はスペインに滞在しながらオランダと戦争を続けたので、オランダ議会がスペイン王の首をはねるということにはならなかった。よって、清教徒革命において、イギリス議会が正統な王の首をはねたことはかなりの衝撃となった。

王の処刑という新たな火種

 イギリス議会はまもなく王制を廃止し、イギリスは共和国となった。だが、それだけでは、安心できなかった。特に、新生のイギリス共和国にとっては、まさにオランダ共和国が不安の種となった。

 両者はすぐさま第一次英蘭戦争に突入する。その一因は、よくいわれるように、両国の商業競争の対立にあった。だが、ほかにも、チャールズ1世の処刑が重要な原因となった。なぜ二つの新生の共和国はチャールズの処刑を契機に戦争したのか。詳しくは、「第一次英蘭戦争」の記事へ。

 チャールズ1世と縁のある人物

クロムウェル:ピューリタン革命の議会軍の主導者。よってチャールズの敵。この革命は議会側からみると、どうみえたのだろうか。また、革命後、クロムウェルはイギリスをどのように統治したのか。

ジェームズ2世:チャールズ1世の次男。17世紀後半にイギリス王となった人物。幼い頃はピューリタン革命により亡命を余儀なくされた。帰国した後、王に即位した。だが、ジェームズもまたチャールズと同様に革命を経験することになる。

チャールズ1世の肖像画

チャールズ1世 利用条件はウェブサイトで確認

おすすめ参考文献

岩井淳『ピューリタン革命の世界史 : 国際関係のなかの千年王国論』ミネルヴァ書房, 2015

川北稔『イギリス史』山川出版社, 2020

David Cressy, Charles I and the people of England, Oxford University Press, 2015

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