アンリ3世

 アンリ 3 世は16世紀後半のフランス国王(1551―1589)。宗教戦争の渦中にあった王。アンリ3世の時代のフランスは宗教戦争(ユグノー戦争)の真っ只中にあった。アンリ3世自身もその複雑な勢力図の中で戦争に参加した。1589年に暗殺され、フランスのヴァロワ朝が断絶することになった。事態は一層混沌の度を強めた。

アンリ3世の出自と初期

 アンリ3世はフランス国王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの第三子として、フォンテヌブローに生まれた。

 アンリはアンジュー公の称号を与えられた。当時のフランスでは、宗教改革の影響で、1562年からカトリックとプロテスタントの間で宗教戦争が生じていた。アンリはこれに参戦した。1569年には、プロテスタント側の主導者ガスパル・ド・コリニーらを破った。

 アンリは母カトリーヌのお気に入りだった。そこで、1572年、ポーランド王が空位になったため、アンリはそれに推された。翌年、ポーランド王に即位した。

ユグノー戦争の最中で

 アンリ2世の後継者には、シャルル9世が即位していた。だが、1574年、シャルルは若くして没した。そこで、アンリはポーランド王の地位を捨て、フランス王アンリ3世として即位した。まもなく、ロレーヌ家のボードモン伯のルイズと結婚した。

 アンリの方針は一貫したものではなかった。アンリは宗教戦争の被害を抑えようとして、プロテスタント勢力にも一定の寛容を認めた。だが、この対応にカトリック勢力の一部が強く反発した。彼らはフランスでプロテスタントを撲滅すべく、カトリック同盟を結成した。その盟主はギーズ公アンリだった。

 1584年、アンリ3世の弟アランソンが没した。その結果、プロテスタント勢力の主導者の一人アンリ・ド・ナヴァルが王位継承者に浮上した。アンリ3世には子供がいなかったので、アンリ・ド・ナヴァルのフランス王即位は現実味があった。

 上述のギーズ公アンリはアンリ・ド・ナヴァルの即位を妨害すべく、十六人委員会を結成した。アンリ・ド・ナヴァルは自身の王位継承権を守ろうとした。かくして、アンリ3世も含めた「三アンリの戦い」が始った。

 1588年、カトリック同盟の本拠地パリがギーズ公アンリを主導者として受け入れ、アンリ3世にたいして反旗を翻した。いわゆるバリケードの日である。アンリ3世はシャルトルへ逃れた。アンリ3世はカトリック勢力の主導権を握るべく、同年、ギーズ公アンリなどの暗殺を試み、成功した。だが、その結果、カトリック同盟はアンリ3世と一層敵対するようになった。

 窮地に陥ったアンリ3世は、アンリ・ド・ナヴァルとの同盟に踏み切った。1589年、協力してパリの攻略を開始した。しかし、その夏、アンリ3世は修道士に暗殺された。かくして、ヴァロワ朝が断絶した。その後、アンリ・ド・ナヴァルがアンリ4世として即位するのを阻止するための国際的な争いが展開されることになる。

アンリ3世の肖像画

アンリ3世 利用条件はウェブサイトにて

おすすめ参考文献

ジュール・ミシュレ『宗教戦争』 桐村泰次訳, 論創社, 2022

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